「別離」(原題: جدایی نادر از سیمین、英題:Nader and Simin, A Separation)は、2011年公開のイランのドラマ映画です。アスガル・ファルハーディー監督・脚本、レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディら出演で、離婚の危機に直面したリベラルな中産階級の夫婦と、彼らに関わる貧しく信心深い夫婦の関係を描いています。第61回ベルリン国際映画祭で最高賞である金熊賞と女優賞、男優賞の三冠に輝き、第84回アカデミー賞ではイラン代表作品として外国語映画賞を受賞した他、脚本賞にもノミネートされた作品です。
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目次
スタッフ・キャスト
監督:アスガル・ファルハーディー
脚本:アスガル・ファルハーディー
出演:レイラ・ハタミ(シミン)
ペイマン・モアディ(ナデル)
シャハブ・ホセイニ(ホッジャト)
サレー・バヤト(ラジエー)
サリナ・ファルハーディー(テルメー)
アリ=アスガル・シャーバズィ(ナデルの父)
シリン・ヤズダンバクシュ(シミンの母)
キミア・ホセイニ(ソマイェ、ラジエーとホッジャトの娘)
メリッラ・ザレイ(ギャーライ先生)
ババク・カリミ(判事)
ほか
あらすじ
- ナデル(ペイマン・モアディ)とシミン(レイラ・ハタミ)は14年来の夫婦で、間もなく11歳になる娘テルメー(サリナ・ファルハーディー)とナデルの父(アリ=アスガル・シャーバズィ)の4人で、テヘランのアパートで暮らしています。中産階級の彼らは、娘の将来を考え外移住を計画、1年半かけて許可を得ます。しかし、ナデルの父がアルツハイマーを患い、介護が必要な父を残して国を出ることはできないと主張するナデルと、たとえ離婚してでも国外移住を希望するシミンは対立します。話し合いは家庭裁判所に持ち込まれますが、離婚は認めても娘の移住は認めないとナデルが譲らず、協議は物別れなり、シミンはしばらく夫の元を離れ、実家で過ごします。
- ナデルは家の掃除と父の介護のために、ラジエー(サレー・バヤト)という貧しく敬虔な女性を雇います。ラジエーは短気な夫ホッジャト(シャハブ・ホセイニ)に黙ってこの仕事に就きます。彼が無職のため家族の生活はこの仕事に依存していますが、男性の体に触れることは罪と心配する敬虔なイスラム教徒のラジエーは、ナデルの父が失禁するのを目にして動揺します。彼女が目を離すと父はふらふら出て外に出てしまうので、ある日、ラジエーはナデルの父をベッドに縛りつけ、家に鍵をかけて外出します。帰宅したナデルとテルメーは、ベッドから落ち、気を失った父を発見します。激昂したナデルは、ほどなく帰ってきたラジエーを怒鳴りつけ、事情も聞かずに手荒くアパートから追い出します。階段に倒れ込んだラジエーは、その夜、妊娠していた胎児を流産してしまいます。ラジエーの入院を知ったナデルは、シミンと様子を見に行き、彼女の流産を聞かされます。ナデルは19週目の胎児を殺した「殺人罪」で告訴され、裁判が始まります。
- ナデルがラジエーの妊娠を知っていたかどうかが、裁判の争点になります。ナデルは知らなかったとし、自分がラジエーを押し出しても、位置や力加減からして階段に倒れ込むことはなく、流産の原因にはなりえないと主張、逆に父をベッドに縛り付け放置した罪でラジエーを告訴します。ホッジャトとナデルの感情的な対立が深まり、ホッジャトはナデルの娘テルメーの学校にまで押し掛け、ナデルやテルメーを貶める発言をするなど、行動がエスカレートします。一方、ナデルがラジエーの妊娠を知らなかったという証言に疑問を抱き、真実を迫るテルメーに、ナデルは自分の嘘を認めます。しかし、判事に証言を求められたテルメーは父親をかばうために嘘の証言をします。異常な状況の中で精神的に追いつめられたテルメーを見かねた母シミンは、テルメーを守る為にホッジャトとラジエーに慰謝料を払い示談で収めようとしますが、ナデルは自分の罪を認めることになるとして拒否し、ナデルとシミンの間の溝が深まります。
- 示談の話が進む中、ラジエーはシミンに、事件の前日にナデルの父が町中に出てしまい、彼をかばうために車にはねられ、その夜から腹痛がしていたとの事実を告白します。夫ホッジャトにそれを話せば殺される、しかし真実を隠して慰謝料をもらうことは罪であり、幼い1人娘ソマイェに災いをもたらすとラジエーは怯えます。シミンとナデル、そしてテルメーの3人はホッジャトとラジエーの家に行き、そこで慰謝料の支払いを含めた示談の手続きをします。ナデルは最後に、ナデルのせいで流産したことをコーランに誓うようにラジエーに求めますが、ラジエーは怯えて逃げ出します。それを追って来たホッジャトにラジエーはようやく真実を語ります・・・。
レビュー・解説
イランの中産階級の家庭を舞台に、離婚、介護、階級差といった問題を織り込みながら、日常生活の些細なことをきっかけに破綻していく人間関係を生々しく描いた本作は、イラン映画初のアカデミー賞に輝いたアスガル・ファルハーディーの緻密な脚本とストイックな演出に舌を巻く、ミステリー風味のドラマ映画です。
アメリカでも評価が高いアスガル・ファルハーディー監督
アスガル・ファルハーディーはイランの映画監督でありながら、アメリカでも非常に高く評価されている映画監督です。アメリカの映画評価サイト Rotten Tomatoes による彼の作品の評価は、
- 「水曜日の花火」(2006年、米公開2016年)・・・100%
- 「彼女が消えた浜辺 」(2009年、米公開2015年)・・・99%
- 「別離 」(2011年、米公開2012年)・・・99%
- 「ある過去の行方」(2013年、米公開2013年)・・・93%
- 「セールスマン」(2016年、米公開2017年)・・・97%
と、ほとんどの作品が非常に高い評価を得ていますが、これはとても珍しいことです。アメリカでの公開年を見ていくと、アカデミー外国語賞を受賞した本作がきっかけとなり、彼の過去作が相次いで公開され、すべて高評価を得ていることがわかります。そういう意味では、アメリカでの高評価のきっかけとなった本作に彼の人気の秘密が凝縮されていると言えるかもしれません。
テヘラン大学等で演劇を学んだファルハーディー監督は、テネシー・ウィリアムズ、ヘンリク・イプセン、アントン・チェーホフ、サミュエル・ベケット、エドワード・オールビーといった世界の劇作家の作品に親しんでいます。そうした彼の素養が、本作のようにイランを舞台とし離婚を中心課題においた作品でも、単にイラン固有の問題としてその是非を描くのではなく、他の様々な問題とともに人間の普遍的な課題のひとつとして捉えることに成功しています。さらにミステリー仕立てで惹きつけながら、観客に判断を委ねるという離れ業をやってのけていますが、検閲のあるイランでここまで現代的で刺激的なドラマを描いてみせるファルハーディーの才覚は驚きです。
実は女性解放が進み、離婚も多いイラン
冒頭、夫婦は裁判所にいます。妻は、「娘をより良い環境で育てる為に外国に行くことを夫婦で計画、準備をしたが、夫が行けなくなったので離婚して娘を連れていきたい。」と離婚を申し立てます。非常にリベラルな考え方ですが、夫は「アルツハイマーの父の面倒を見るために、海外には行けない。離婚は認めても、娘も手放せない。」と反論します。
イランと言うとイスラムの戒律が厳しく、女性はヒジャブを纏い、家庭に縛られ、社会的に抑圧されているという印象がありますが、実はイスラム諸国の中では比較的、女性の解放が進んでいる国です。これはイスラム革命(1979年)以前のパフラヴィー朝が、
といった欧化政策の進めていた為です。イスラム化への反動的回帰であるイスラム革命後も、この影響は残っており、現在でも、
- 医学、人文、基礎科学、芸術の分野での大学生の男女比率は女性の方が多い
- 医学専攻では70%以上を女子が占める(男女分離政策の結果、医療分野では女性の方が就業の自由度が高くなり、女性専門職の増大を後押ししている)
- 女性の全労働人口の3分の1が専門職に就いており、そのうちの8割以上が教育職
- 大学教員の4人に一人が女性で、官公庁では女性管理職の登用も行われている
- 女性から離婚を申し立てることができる
となっています。しかし、
- 公衆の面前における女性の体と髪を覆うヒジャブの着用義務
- 男性よりも限定される女性裁判官の権限
- 夫は一方的に離婚できるが、女性が申し立てる離婚には夫の合意が必要
など、依然として残る不均衡への女性の反発は強く、現政権も無視できない状況です。
そんなイランでは離婚が増えており、首都テヘランの離婚率は50%にも上り、離婚に伴う費用を負担できない夫が収監されるケースも多発しています。本作はそうした状況をタイムリーに捉え、離婚を中心課題に据えた作品ですが、これが元より離婚が大きな社会課題のひとつである欧米で高い評価を得るきっかけになったものと思われます。因みに英題の「A Separation」は「ある別れ」と言う意味ですが、原題の「جدایی نادر از سیمین」は、離婚、別れ、亀裂といった幅広い意味があるようです。冒頭では単に外国へ行きたいが為に離婚したいという状況でしたが、その後、二人の間にじわじわと亀裂が広がっていくことを暗示しているようです。
様々なテーマを重ねたミステリー仕立てのドラマ
本作では、やや退廃的な中産階級の夫婦に、信心深い貧困家庭の夫婦を対比させています。ある意味、階層間の戦いですが、映画はいずれの夫婦にも肩入れすることなく、距離を置きながら描いています。アスガル・ファルハーディー監督の卓越している点は、単に離婚問題を扱ったことではなく、
- 介護や正義、誇り、償い、格差、宗教、親族といった様々な普遍的テーマを重ねる
- 個々のテーマの是非を論ずるのではなく、それらの相互矛盾から問題を惹起させる
- ミステリー要素をもたせ、観客を惹きつける
- ハンディ・カメラでリアルに描き、解釈を観客の受け止め方に委ねる
- 登場人物からストイックに距離を置き、音楽で感情表現したりしない
というハイレベルな脚本・演出を実現していることです。
(イランでは)近年離婚するカップルはとても増えています。おそらく西洋の国に比べても多いのではないでしょうか。この映画は、彼らの日常の生活にとても近いと思います。映画を見たイランの観客から、受け入れ難いとか、現実離れしているといった意見をもらったことはありません。私にとって観客、特にイランの人々にリアルだと感じてもらうことはとても重要なことです。
私はいつもストーリーを形作ることから始めます。テーマやコンセプトが先にありきでストーリーを描くわけではありません。どのストーリーにもいろいろなテーマがあります。我々の関心をうまくストーリーに描くことができれば、いくつかのテーマを強調することができます。この映画は法制度を描いたものではありません。もっと広い範囲を見ています。法、道徳、正義と言ったものです。これらの関係の背後に隠れた矛盾が、時に災難をもたらすのです。
ミステリー形式で描いている点は、「花火の水曜日」(2006年)、「彼女が消えた浜辺」(2009年)と共通していますが、私は前もってミステリー形式で描こうと決めているわけではありません。ストーリーそのものによって、ミステリー形式で描くように導かれているといった方が近いです。この三作は、鎖のようにお互いに繋がっているような気がします。
三作とも、ほとんど音楽は使っていません。エンド・クレジットにテーマ曲は流れますし、音楽が嫌いだからという訳ではありません。むしろ音楽が好きだから、控えめに使わなければならないと思っています。音楽はしばしば感情を呼び起こす為の常套手段となっています。私はそれをやりたくない。私がやっているのは、映画を通して生まれた強い感情をエンド・クレジットで開放することだけです。(アスガル・ファルハーディー監督)
日常的なシーンにテーマと伏線を埋め込んだ精緻な脚本
ファルハーディー監督の脚本は、単純な因果関係によるストーリー展開ではなく、
- イメージからストーリー展開し、様々なテーマを埋め込んでいく
- 複数の視点から脚本を磨き込む
- 日常の些細なことに伏線を埋め込む(例えば、シミンがピアノの運搬費用の追加分を支払ったり、ラジエーが娘にゴミ捨てを言いつけたりと、何気なく見過ごしてしまそうな日常的なシーンがあるが、後に重要な意味合いが出てくる)
と、非常に精緻なもので、これが緻密で現実感のあるストーリー展開をもたらしています。
私にとって映画を作ること、脚本を書くことは、無意識に車を運転するようなものです。多くの場合、それは私の心に浮かんだイメージから始まります。例えば本作の場合、風呂場でアルツハイマーの父の体を洗っている男のイメージから浮かびました。彼は一体誰だ?彼の家族はどこにいる?何故、自宅で父の体を洗っている?と私は自問します。これらの問いに答えを出すと、私はそれをストーリーにします。プロットを終え、象徴的なテーマ、具体化したテーマを埋め込んでいきます。私はテーマからストーリーを作るのではなく、その逆なのです。
私のストーリーの構造は線ではなく、円です。玉ねぎの皮をむくように、状況を周囲から描いていきます。東洋的なアプローチです。私はひとつの視点からストーリーを描くことをしません。視点の多くは観客に依存します。社会的な視点で見る人もいれば、道徳的な視点で見る人もいます。これらの視点を考慮すると、作品作りには時間がかかります。私は一旦書いたストーリーを、社会的な視点で見直し、細かな点を書き直します。次に、道徳的な視点から、同じ事をします。他の視点についても、同じことを繰り返します。
私たちは人生に対して誤った印象を抱いています。人生の大事件は大きなジレンマや一大決心の結果と思いがちです。でも、注意深く見てみると、事件を起こしているのは普通のことなのです。私が脚本を書いたり撮影したりする時は、日常生活の些細なことに単純化します。重要なシーンと観客に意識させ、記憶を強いることはしたくありません。逆に、観客が自ら記憶を遡って些細な事を思い出すことが、映画とより深く関わることなのです。
日常生活の些細なことを映画に埋め込むのは大変なことです。私が留意しなければならないと思うのは、タイミングです。こうした映画は、速いテンポで描くことができません。日常生活の些細な断片は、クロスワード・パズルのようなものです。出来事の一端が、他の出来事の一端になっています。(アスガル・ファルハーディー監督)
ファルハーディー監督は、いくつかの即興を取り込むことがあっても、完成した脚本を書き換えることはありません。これは、その精緻さ故、一部を変更すると矛盾するところが出てくる為です。
皮肉に満ちたエンディング
<ネタバレ>
エンディングも裁判所です。離婚が成立し、娘が父親を選ぶか、母親を選ぶか、二人が廊下に出て待つところで映画は終わります。どちらを選んだかは観客の想像に任されますが、ここで夫婦も娘も黒い服を着ており、アルツハイマーだった夫の父が亡くなったことが暗示されています。つまり、離婚しなければならない当初の理由がなくなったにも関わらず、二人の間に亀裂が入り、離婚が成立、娘は泣く泣くどちらの親と暮らすか選択することになったこと示す、皮肉に満ちたエンディングです。
因みに、貧しい夫婦は流産で子供を失っただけではなく、慰謝料も手にすることができず、夫は荒れ狂います。本作は、リベラルに国を捨てることが必ずしも幸福をもたらさないことと同様に、貧しくイスラムの戒律にしがみつくことも必ずしも幸福をもたらすものではないことを暗示しているかのようです。幸・不幸を分けるものはリベラル vs イスラムの戒律といった次元ではなく、オープンニングの裁判所からエンディングの裁判所の間の、ありきたりの日常の中にあるわけですが、それは一体何なのか?亀裂を広げない為にはどうすれば良いのか?そんな視点で見返しても面白いのではないかと思います。
<ネタバレ終わり>
レイラ・ハタミ(シミン)
レイラ・ハタミ(1972年〜)はテヘラン出身のイランの女優、映画監督。父は映画監督、母は女優、夫は俳優。ペルシア語の他に、流暢なフランス語、英語、ドイツ語を話す。スイスに留学、機械工学とフランス文学を学んだ後、帰国、本格的に映画に出演するようになり、「レイラ」(1996年)で高い評価を得る。本作でリベラルなイラン女性を演じ、ベルリン国際映画祭で銀熊賞(女優賞)を連名で受賞している。2014年にカンヌ映画祭の審査員に招かれたが、その席上、ジル・ヤコブ実行委員長の頬にフランス式にキスしたことがイラン政府に「イラン女性の貞節を汚す」と批判され、後にイラン映画協会に詫び状を提出している。本作で彼女が演じたシミンの、「娘の為にこの国を捨てたい」という気持ちがよく分かるようなエピソードである。
ペイマン・モアディ(ナデル)
ペイマン・モアディ(1970年〜)はニューヨーク出身の俳優、脚本家、映画監督。イランとアメリカの国籍を持つ。ファルハーディー監督の本作と「彼女が消えた浜辺 」(2009年)でよく知られている。ベルリン国際映画祭で銀熊賞(男優賞)を連名で受賞している。
シャハブ・ホセイニ(ホッジャト)
シャハブ・ホセイニ(1974年〜)はテヘラン出身のイランの俳優、映画監督。 イランの人気俳優で、ファルハーディー監督の本作と「セールスマン」(2016年)への出演で国際的には知られる。本作でベルリン映画祭の銀熊賞(男優賞)連名で受賞、「セールスマン」でカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞している。
サレー・バヤト(ラジエー)
サレー・バヤト(1979年〜)は、テヘラン出身のイランの女優、テレビ司会者、モデル。本作で貧しく信心深いイスラム女性を演じ、ベルリン国際映画祭の銀熊賞(女優賞)を連名で受賞している。
サリナ・ファルハーディー(テルメー)
サリナ・ファルハーディー(1998年〜)テヘラン出身のイランの女優。アスガル・ファルハーディー監督の娘。父の監督する映画に出演するのが、本作で4度目。本作で、ベルリン国際映画祭の銀熊賞(女優賞)を連名で受賞している。
関連作品
アスガル・ファルハーディー監督作品のDVD(Amazon)
「彼女が消えた浜辺」(2009年)
「マルコムX」(1992年)
「アフガン零年」(2003年)
「パラダイス・ナウ」(2005年)
「ペルセポリス」(2007年)
「壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び」(2011年)
「裸足の季節」(2015年)