夢は洋画をかけ廻る

洋画のレビューや解釈、解説、感想、撮影地、関連作品などを掲載しています。タイトルは、松尾芭蕉最後の句と言われる「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」由来です。病に伏してなお、夢が枯野をかけ廻るとは根っからの旅人だったのですね。映画はちょっとだけ他人の人生を生きてみる、いわば人生の旅のようなもの。願わくば、芭蕉のような旅の達人になりたいものです。

「セールスマン」:劇中劇と現実が交錯、現代のイラン中流層が題材の示唆に富む作風がさらに進化した、ファルハーディー監督のドラマ映画

「セールスマン」(ペルシア語:فروشنده)は、2016年公開のイラン・フランス合作のクライム・サスペンス&ドラマ映画です。アスガル・ファルハーディー監督・脚本、シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリシュスティら出演で、自宅で何者かに襲われ苦悩する劇団員の妻と、その犯人探しに躍起になる劇団員の夫を、二人が舞台で演じるアーサー・ミラーの「セールスマンの死」と並行して描いています。第69回カンヌ国際映画祭脚本賞アスガル・ファルハーディー)と男優賞(シャハブ・ホセイニ)を受賞、第89回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品です。

 

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目次

スタッフ・キャスト

監督:アスガル・ファルハーディー
脚本:アスガル・ファルハーディー
出演:シャハブ・ホセイニ(エマッド)
   タラネ・アリシュスティ(ラナ)
   ババク・カリミ(ババク)
   ファリド・サッジャディホセイニ(男)
   ミナ・サダティ(サナム)
   マラル・バニアダム(キャティ
   メーディ・クシュキ(シヤワシュ)
   エマッド・エマミ(アリ)
   シリン・アガカシ(エスマット)
   モジュタバ・ピルザデー(マジッド)
   サーラ・アサアドラヒ(モジュガン)
   エテラム・ブルマンド(シャフナザリ夫人)
   サム・ワリプール(サドラ)
   ほか

あらすじ

  • 小さな劇団に所属する教師のエマッド(シャハブ・ホセイニ)とその妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)は、上演を間近に控えたアーサー・ミラー原作の舞台劇「セールスマンの死」の稽古に励んでいます。そんな中、近隣の無秩序な土地開発の為、彼らが住む家が倒壊しそうになり、二人は劇団の仲間が紹介してくれたアパートに移り住むことにします。
  • 慌ただしく引っ越し作業を終え、舞台の初日を迎えた夜、ひと足早く劇場から帰宅したラナは、シャワーを浴びている最中に侵入者に襲われます。この事件を機に、夫婦の関係は一変していきます。病院から痛々しい姿で帰宅したラナは、精神的にもダメージを負い、無口になります。エマッドは犯人を捕まえるために「警察に行こう」とラナを説得しますが、表沙汰にしたくない彼女は頑なに拒みます。
  • ラナは立ち直ることができず、エマッドはやり場のなり苛立ちを募らせ、すれ違う二人の険悪になっていきます。やがてエマッドは、引っ越した家には娼婦が住んでいたことを知り、犯人はその娼婦と関係のある人物だと睨んで、自分の力で犯人を探し出そうとします・・・。

レビュー・解説

劇中劇と現実を交錯させて描くことにより、イランの中流層を題材にした現代的で示唆に富む作風をさらに進化させた、アスガル・ファルハーディー監督のリアルでスリリングなドラマ映画です。 

ファルハーディー監督作品の魅力

近年、

と、アスガル・ファルハーディー監督が制作する作品は、すべてが国際的に高い評価を得ています。これら一連の作品には次のような魅力があり、本作も例外ではありません。

  • 従来のイメージとは異なるイランの中流層を描いている
  • 人間関係、特に家族の人間関係を描いている
  • ドキュメンタリー・タッチで臨場感のあるドラマである
  • ミステリー&サスペンスの要素があり、展開がスリリングである。
  • 社会的、道徳的な問題を問いかける
  • 緻密な構成と自然でリアルな台詞で感情移入を誘う脚本
これまでのイメージとは異なるイランを描く

イランはイスラム原理主義社会と捉えられることが多く、これまでのイラン映画も田舎を舞台にしたものや、伝統を強調するものが少なくありませんでした。イランには歴史的に中流階級が存在しませんでしたが、最近は都市部を中心に現代的なものと伝統的なものをうまく調和させる若い世代が中流層が形成されつつあります。この層はそれなりの生活水準を享受しながら、世界の他の国の人々を同様、不倫があったり夫婦げんかがあったりという暮しをしています。そんなイランの新たな中流層を題材にするファルハーディー監督の作品は、イランの人々にとってはトレンディあり、世界の人々にとっては意外性があり、それが人気の導火線になっているようです(パリを舞台にした「ある過去の行方」は、イラン中流層に限定されない、フランスへの移民や離婚する夫婦、家族の無国籍な心の襞を描いている)。

 

因みにファルハーディー監督が「彼女が消えた浜辺」(2009年)を日本の国際映画祭に出品しようとしたところ、「欧米社会がイランに対して抱くイメージと描写が全く違う」という理由で受け付けてもらえなかったといいます。イスラム圏における人権侵害や、核開発を巡るイランと国際社会の対立などの社会的な背景があった為と思われますが、日本の映画界の保守性が垣間見えるようでちょっと恥ずかしい話です。因みに、アメリカで「水曜日の花火」(2006年)や「彼女が消えた浜辺」(2009年)が公開されたのも、「別離」(2011年)がアカデミー賞外国語賞を受賞した後のことです。反イスラム感情の強いアメリカで市場性を得る為には、アカデミー賞受賞作家の作品というお墨付きを待たねばならなかったのかも知れません。

社会的、道徳的な問題を問いかける

ファルハーディー監督作品の特徴のひとつは、作品の中でいくつかの社会的、道徳的な問題の問いかけをすることです。それらは、例えば、

  • 彼女が消えた浜辺」:婚約中の女性が他の男女とのグループ旅行に参加の是非
  • 「別離」:国に残って親を介護すべきか、子の教育の為に移住すべきか?
  • 「ある過去の行方」:妻が植物状態の夫と離婚したシングルマザーとの交際の是非
  • 「セールスマン」:妻は何故、暴行事件に遇ったのか、夫はどう対処すべきか?

といったものです。

 

ファルハーディー監督が好んで描くのは人間関係、特に家族の人間関係ですが、その背後には男女や家族の関係のあり方、家族の介護や子供の教育のあり方、世間体や宗教的規範といった社会的規範があり、彼が提起する問題は多かれ少なかれ社会性や道徳性を帯びます。あくまでも問題提起であり、ファルハーディー監督自身の答えが示されることはありませんが、イラン国内では観た後に観客同士が議論を始め、話題が話題を呼んで作品の人気を加速しているようです。提起される問題自体は普遍的なものですが、多少なりともイランの社会性が反映されますので、他国の人はノスタルジックな印象を受ける場合があるかもしれません。例えば、本作でラナは暴行事件を表沙汰にすることを望みませんが、これは「ガードは固くあれ、身体や家族は隠すものである」というイラン的な考えに基づくものです。より女性開放が進んだ国々では、この考えは古く映る可能性があります。

 

尚、彼は基本的にドラマ作家であり、社会体制そのものを直接的に批判することはありません。もちろん彼はイラン政府による検閲を歓迎してはいませんが、小規模予算の作品を比較的簡単に作れるというメリットがある為、たまに海外で制作することはあっても、イランで映画を作り続けることを否定していません。

念願の舞台の世界を描く

本作最大の特徴は、劇中劇が進行、映画の中で現実と舞台劇を対置させる構成をとっていることです。学生時代に舞台監督論を学び、舞台に関わっていたファルハーディー監督は、その頃から映画で舞台の世界を描きたいと考えていましたが、なかなか実現できませんでした。パリを舞台にした「ある過去の行方」(2013年)の後、スペインを舞台した映画を準備していた彼は、チームが動くまで一年かかることを知り、一旦、イランに戻ってイランを舞台にした映画を作ることにしました。十数年前に夫婦を題材にした作品を作りかけましたが、夫婦の職業が決まらないまま未完となっていたものがあり、彼は映画製作の為のネタ帳を整理しながら、この未完の作品の夫婦の職業を舞台俳優にし、かねてからの願望だった舞台の世界を描くことにしました。

 

サルトルの不条理劇など様々なぶち劇を読み返したファルハーディー監督は、

  • 第二次大戦後の経済過熱で急変するニューヨークが、現在のテヘランに類似
  • 人間関係、特に家族関係を描く点が、ファルハーディー監督の作風と共通
  • 急激な新旧世代交代の中で古い者が味わう屈辱が、本作で描くものに重なる

といった点に注目、劇中劇としてアーサー・ミラーの「セールスマンの死」を取り込むことにしました。こうした共通点は、モダンで美しいながらも鉄骨がむき出しの舞台、近隣の無秩序な開発の為に壁にヒビが入るテヘランのアパート、新旧入り混じるテヘランの街の風景などで表現され、繁栄、不調和、不穏さといった雰囲気を醸し出しています。

 

モダンで美しいながらも鉄骨がむき出しの舞台

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近隣の無秩序な開発の為に壁にヒビが入ったアパート

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新旧入り混じる街の風景

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劇中劇と現実で交錯する俳優の役割

セールスマンの死」(原題:Death of a Salesman)は、1949年初演のアーサー・ミラーによる全2幕の戯曲で、ピューリッツァー賞を受賞した名作です。主人公の年老いた63歳のセールスマン、ウィリー・ローマンは米国各地を回る有能なセールスマンでしたが、今は仕事もうまくいかず、家のローンの支払いにも窮し、差し迫る老いに身に晒しています。家を出ていた長男が久しぶりに家に帰ってきますが、家族が知らない「父の秘密」を握る長男とウィリーはことあるごとに衝突します。やがてウィリーは会社を解雇され、父の意を汲んで一旗揚げようとしたと長男は事業に失敗、ウィリーは八方塞がりのまま追い詰められていくという作品です。競争社会の問題、親子の断絶、家庭の崩壊、若者の挫折感など、第二次世界大戦後に顕著になったアメリカ社会の影の部分を描いた作品で、ウィリーの過去の栄光や息子との不和のプロセスをフラッシュバックを応用した手法で表現しています。

 

本作の劇中劇でも演じられますが、本作と特に密接に関わってくるのが、ウィリーが情婦と一緒にいるのを長男に見つかるシーンです。偽善が暴かれ、尊厳が一気に失墜するという、父親にとって屈辱的なシーンです。劇中劇でウィリーとその妻リンダを演じるのはエマッドとラナですが、映画の中の現実でウィリーとリンダに対応するのは、

<ネタバレ>

終盤に登場するラナを襲った行商人の老人と、何も知らないその妻です。つまり、エマッドとラナは毎晩、ウィリーとリンダを演じながら、実生活では娼婦通いや暴行といった行商人の秘密を老いた妻や家族に暴露し、屈辱を与え得る立場になるのです。この立場の交錯が、エマッドとラナの苦悩をより深いものにします。エマッドはかろうじで暴露を思いとどまりますが、老人は発作を起こして倒れ、心臓マッサージを受けながら、救急車で運ばれます。劇場の楽屋で複雑な表情でメイクするエマッドとラナが映し出され、言い知れぬ余韻を残しながらエンドロールに切り替わります。因みに、本作のタイトルの「セールスマン」は、劇中劇のセールスマンと最後に登場する行商人の老人をかけたものです。

<ネタバレ終わり>

 

この稽古シーンでは、裸という設定の情婦が服(真っ赤なトレンチコート)を着たまま演じられますが、劇団員たちがこれを笑い、情婦を演じる女優が激怒します。舞台では裸といっても下着姿なのでしょうが、ヒジャブやチャドルで覆い、近親者以外に女性の体を隠すイランでは、下着姿で演じるのはとんでもないことで、政府の検閲の対象にもなります。これが如何にも不自然でなので、劇団員はそれを笑うわけですが、「ガードは固くあれ、身体や家族は隠すものである」というイランの伝統的な考えの元で真面目に生きている人々や、政府の検閲に四苦八苦しながら真面目に舞台を取り組んでいる情婦役の女優にとって、この笑いは耐え難い侮辱になります。イランの伝統的な考えを暗示するこのシーンは、やがてラナがシャワーの最中に侵入者に襲われ、大きなショックを受けること、それを警察に届けようとしないことへの布石となっています。一見、現代的なラナですが、彼女の中にもイランの伝統的な考えが残っているのです。

 

次々の高評価の作品を生み出すファルハーディー監督ですが、現在はスペインを舞台にしたペネロペ・クルスハビエル・バルデムが出演の「Everybody Knows」の制作に戻り、既に撮影を終えています。これまで彼の作品の延長線上にあるこの作品をプロデュースするのが、スペインの映画監督・脚本家・プロデューサーのペドロ・アルモドバル*3です。スペインの二大俳優と大監督という強烈な個性のコラボで、公開が楽しみです。

 

シャハブ・ホセイニ(エマッド)

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シャハブ・ホセイニ(1974年〜)は、テヘラン出身のイランの俳優、映画監督。イラン国内で人気の俳優で、アスガル・ファルハーディー監督・脚本の「彼女が消えた浜辺」(2009年)、「別離 」(2011年)、「セールスマン」(2016年)などで国際的に知られる。「別離 」でベルリン国際映画祭最優秀男優賞(銀熊賞)、「セールスマン」でカンヌ映画祭最優秀男優賞を受賞している。

 

タラネ・アリシュスティ(ラナ)

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タラネ・アリシュスティ(1984年〜)は、イランの女優。イランのトップ女優の一人で、アアスガル・ファルハーディー監督・脚本の「水曜日の花火」(2006年)、「彼女が消えた浜辺」(2009年)、「セールスマン」(2016年)で国際的に知られる。本作でアカデミー外国語映画賞を受賞した際に、ファルハーディー監督とともにトランプ大統領の移民政策に抗議して授賞式を欠席した。

 

ババク・カリミ(ババク)

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ババク・カリミ(1960年〜)の俳優。アスガル・ファルハーディー監督・脚本の「別離 」(2011年)、「ある過去の行方」(2013年)、「セールスマン」(2016年)で国際的に知られる。

 

アスガル・ファルハーディー監督と各俳優のコラボレーション

タイトル 水曜日の花火 彼女が消えた
浜辺
別離 ある過去の
行方
セールスマン
公開年 2006年 2009年 2011年 2013年 2016年
タラネ・
アリシュスティ
 ◯       ◯ 
ゴルシフテ・
ファラハニ
         
シャハブ
ホセイニ
    ◯ 
メリッラ・ザレイ        
ペイマン・
モアディ
   

   
レイラ・ハタミ      ◯     
ババク・カリミ      ◯  ◯  ◯ 
ベレニス・ベジョ        ◯   
タハール・ラヒム        ◯   

 

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関連作品

劇中劇の原作本Amazon

  アーサー・ミラーセールスマンの死

 

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  「水曜日の花火」(2006年)・・・輸入版、日本語なし

  「彼女が消えた浜辺」(2009年)

   「別離」(2011年)

  「ある過去の行方」(2013年)

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ペドロ・アルモドバルが手がけた主な作品 

  • 「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999年)監督・脚本
  • 「デビルズ・バックボーン」(2001年)制作
  • トーク・トゥ・ハー」(2002年)監督・脚本
  • バッド・エデュケーション」(2004年)監督・脚本
  • 「ボルベール〈帰郷〉」(2006年)監督・脚本
  • 抱擁のかけら」(2009年)監督・脚本・制作
  • 「私が、生きる肌」(2011年)監督・脚本
  • 「人生スイッチ」(2014年)制作
  • 「エル・クラン」(2016年)制作
  • ジュリエッタ」(2016年)監督・脚本