「オマールの壁」:テロを仕掛けた為に、イスラエルの諜報活動に翻弄される若者たちをリアルに描く、パレスチナ製クライム・サスペンス
「オマールの壁」(原題:عمر、英題:Omar)は、2013年公開のパレスチナのクライム・サスペンス&ドラマ映画です。ハニ・アブ・アサド監督・脚本、アダム・バクリら出演で、分離壁を越えて恋人と会うパレスチナの青年がテロ容疑でイスラエルの秘密警察に捕まり、一生を獄中で過ごすか、スパイになるかの選択を迫られ、葛藤する姿を描いています。第66回カンヌ国際映画祭で特別審査員賞を受賞、第86回アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされた作品です。
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目次
スタッフ・キャスト
監督:ハニ・アブ・アサド
脚本:ハニ・アブ・アサド
出演:アダム・バクリ(オマール、パン職人、ナディアの恋人、結婚を夢見て貯金)
サメール・ビシャラット(アムジャド、オマールの幼馴染、ナディアに横恋慕)
エヤド・ホーラーニ(タレク、オマールの幼馴染、イスラエル攻撃のリーダー格)
リーム・リューバニ(ナディア、タレクの妹、オマールの恋人)
ワリード・ズエイター(ラミ)
ほか
あらすじ
- パレスチナ自治区、思慮深く真面目なパン職人の青年オマール(アダム・バクリ)は、監視塔からの銃弾を避けながら分離壁をよじ登り、幼馴染みのタレク(エヤド・ホーラーニ)、アムジャド(サメール・ビシャラット)と連絡をとってはイスラエル政府軍に対抗する為の武器を調達、射撃訓練を行なっています。その一方で、タレクの妹であるナディア(リーム・リューバニ)との間に愛を育み、結ばれる日を夢見てパン屋の稼ぎを貯め込んでいます。
- ある日、分離壁を超えたオマールはイスラエル兵に嫌がらせを受け、報復するかのように幼馴染とともにかねてから計画していた銃撃をしかけます。イスラエル兵殺害容疑で捕えられたオマールは、自白を拒んで無罪となるはずでしたが、イスラエル秘密警察の捜査官ラミ(ワリード・ズエイター)の策略により、一生囚われの身になるか、仲間を裏切ってスパイになるか選択を迫られ、葛藤します。
- その一方で、仲間たちの間には裏切り者の情報が錯綜、オマールもアムジャドを疑います。アムジャドはナディアと禁断の関係を持ち、それをラミに脅迫されたと告白、三人が揉める中、銃の暴発でタレクは絶命します。やむを得ず、オマールはタレクの遺志と偽り、アムジャドとナディアの結婚を認めますが、2年の時を経て、オマールはアムジャドの嘘を知ります・・・。
レビュー・解説
テロを仕掛けた為に、イスラエルの反テロ諜報活動に翻弄される若者たちの愛と友情、信頼と裏切りをリアルな設定で描く、稀有で見ごたえのあるパレスチナ製のクライム・サスペンスです。
パレスチナという言葉を耳にしたり、ニュース映像を見ることはあっても、どんな人たちが、どんな生活をしているのか、我々が目にすることはほとんどありません。本作は、スタッフ全員がパレスチナ人、撮影もパレスチナで行ったという、稀有でリアルな設定が見ごたえのある作品です。政治的なメッセージを発する社会派ドラマというよりは、クライム・サスペンスの色彩が濃く、テロを仕掛けた為にイスラエルの対テロ諜報活動に巻き込まれ、翻弄されるパレスチナの若者たちの愛、友情、信頼や裏切りを描いています。若者を演じる4人はいずれもパレスチナ人の新人俳優で、フレッシュながらも個性的で生き生きとしたパフォーマンスを見せています。
アダム・バクリ(オマール)
パレスチナ人の新人俳優。ナディアと相思相愛の純朴な青年オマールが、葛藤しながら、精悍になっていく様子を見事に演じている。
サメール・ビシャラット(アムジャド)
パレスチナ人の新人俳優。唯一、ひょうきんな面をもつオマールの幼馴染で、ナディアに横恋慕するアムジャドを演じている。
エヤド・ホーラーニ(タレク)
パレスチナ人の新人俳優。オマールの幼馴染で彼らのイスラエル攻撃計画のリーダー格である好戦的なタレクを演じる。
リーム・リューバニ(ナディア)
パレスチナ人の新人俳優。オマールと相思相愛の慎ましやかで可愛らしいタレクの妹を初々しく演じる。
ワリード・ズエイター(ラミ)
パレスチナ系アメリカ人の舞台俳優、プロデューサー。カリフォルニアに生まれ、クウェートで育つ。イスラエル秘密警察の諜報員を巧みに演じている。
パレスチナは地中海東岸シリア南部の歴史的地域名称で、19世紀以降、各地で民族自立が促されると、ユダヤ人もオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めます。第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊し、シオニズム(イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようとするユダヤ人の運動)に押された大英帝国と列強は、「ユダヤ人の母国をパレスチナに確立する」としてイギリス委任統治領パレスチナを国際連盟で決議します。さらに、第二次世界大戦後、ホロコーストで同情を集めたシオニズムに押され、国際連合でパレスチナ分割決議を採択され、イスラエルが建国されます。これに反発したアラブ諸国とイスラエルとの間で第一次中東戦争が勃発、イスラエルが勝利し、パレスチナの8割を占領します。中東戦争はその後も断続的に続き、1967年の第三次中東戦争では、イスラエルは東エルサレム、ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領しますが、その後、エジプト、シリアに反撃を受け、緊張関係が続きます。
teleSUR
一方、イスラエル国内でも、イスラエルとパレスチナ人の間で暴動が頻発するようになります。1993年に、ヨルダン川西岸地区とエジプトに接するガザ地区からなるパレスチナ自治区が設立され、パレスチナ解放機構 (PLO) が母体となったパレスチナ自治政府が統治するようになりますが、自治政府内の勢力争いもあり、イスラエルを標的にした自爆テロやロケット砲攻撃が行われるようになり、イスラエル政府がこれに反撃するなど緊張関係が続いています。
本作は基本的にフィクションですが、設定は事実に即したリアルなものになっています。映画の冒頭、主人公のオマールが壁を超えるシーンがありますが、これはイスラエルがヨルダン川西岸地区との境界付近に建設している分離壁です。イスラエル政府は分離壁(イスラエル政府は「セキュリティ・フェンス」と呼ぶ)を自爆テロ防止のためと説明、これにより自爆テロは大幅に減少したとしており、分離壁の大部分が完成する前後の統計を見ると、2002年には47件の自爆テロが発生し238人のイスラエル市民が犠牲となったのに対して、2008年には自爆テロ2件、犠牲者1名まで減少しています。一方で、分離壁はユダヤ人入植地を囲むために1949年停戦ラインより内側に入り込んでおり、さらに分離壁そのものがパレスチナ人の生活を分断して大きな影響を与えていることから、国際司法裁判所はパレスチナ人の民族自決を損なう不当差別に該当し、国際法に反するという意見を2004年に出し、国連総会でも非難決議がなされています。
オマール、アムジャド、タレクの三人の幼馴染は、武装組織エルサレム旅団の予備軍で、イスラエル兵を銃撃しますが、宗教的な描写はほとんどありません。現在のパレスチナの若者を「消費文明の餌食」になったとするアサド監督は、宗教的対立ではなく、分離壁や秘密警察によるイスラエル(ユダヤ人政府)の支配と、それに反発するパレスチナ人という対立の構図で捉えています。オマールをイスラエル兵殺害の容疑者として尋問する秘密警察は、イスラエル公安庁(通称シャバク)です。政府職員から秘密の個人情報を楯に協力を要請された友人の話を何年か前に聞いたアサド監督は、そうした状況が若者たちにどんな影響を及ぼすのか、いろいろ考えてこの映画の筋書を完成させたと言います。
シャバクの業務は、
などで、尋問とエージェントによるヒューミント(人間を媒介とした諜報活動、合法活動や捕虜の尋問等も含む)でこの目的を遂行します。シャバクはその地区の情報提供者を使い、攻撃計画や指導者に関する情報を収集します。ハマースのような急進的パレスチナ組織の指導者を標的に圧倒的な成功を収め、これらの組織がシャバックへの協力が疑われる者を殺し始めるほどのインパクトを与えました。シャバクは容疑者への尋問からも情報を引き出し、暴力的な尋問も行われていました。イスラエルの裁判所は拷問に目を光らせており、また、シャバックも現在は心理的な手法でのみ尋問を行っているとしていますが、アムネスティ・インターナショナルなどの人権組織は国際的基準では拷問となるものが依然として日常的に行われているとしています。
欧米諸国はテロ対策に手を焼いています。アメリカは、9.11から15年以上経った今日でもテロ対策に決め手を欠いており、また最近、テロの標的になっているフランスのマニュエル・ヴァルス元首相も「フランスは今後長いあいだ、テロとともに生きていかなければならない」と語っています。しかしながら、長い間、テロ対策に腐心してきたイスラエルには「人権を神聖化するな、絶対視するな」という考え方があり、テロ対策に成果を出してきました。自由や人権は横に置き、まず人命を最優先して対策を立てるべきだという強硬な意見です。本作で描かれている分離壁や、シャバックのやり方は、そうした考え方の反映とも言えますが、テロ対策に成果を出す一方で、国際世論の反感を買っているのは前述の通りです。
ハニ・アブ・アサド監督は、オランダ、パレスチナの映画監督、脚本家で、イスラエルのナザレで生まれ、19歳でオランダに移住、航空エンジニアとして数年働いた後、テレビ、映画界に関わり、1998年に映画監督としてデビューしました。2005年制作の「パラダイス・ナウ」では、自爆テロに向かう2人のパレスチナ人青年を描き、アカデミー外国語映画賞にノミネートされています。本作は、政治的メッセージを発する社会派映画というよりは、テロ行為とその代償を描くクライム・サスペンスですが、アサド監督はインタビューで彼の政治的立場や、本作での人間の描き方を次のように説明しています。
- イスラエルによる占領に強く反対する
- 消費社会が地球の文化に優劣を付けている
- 人間は善悪が混在するグレーな存在だが、西洋文化圏は権力を保持する為に物事を白か黒で見る
- アメリカ文化は復讐を賛美するが、復讐したい気持ちとどう付き合うかが重要
- 暴力も選択肢だが、代償を伴う
クライム・サスペンス的な映画とは言え、本作は、世界がパレスチナ問題に関心を持つ、ひとつの契機になり得るものと思われます。欧米の列強主導で行った国連のパレスチナ分割が、アラブ民族の反発を招き、現在に至るまで禍根を残しているわけですが、世論の反発を受けたイスラエル政府が、今後、人権を優先しテロ対策の手を緩めていくのか、世界がパレスチナ問題をどのように解決されていくのか、興味深いところです。
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