「アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ」(原題:Senna)は、 2010年公開のイギリスのドキュメンタリー映画です。かつてのF1の名ドライバー、アイルトン・セナの生誕50年を記念して、慈善団体である「アイルトン・セナ財団」の公認を得て製作された作品で、アシフ・カパディア監督、アイルトン・セナ、アラン・プロストら出演で、セナの誕生からレーサーとしてのデビュー、F1で3度のワールドチャンピオンに輝き、1994年のサンマリノ・グランプリで事故死するまでの34年間の彼の生涯を、肉親・関係者の証言や秘蔵映像などで振り返っています。2011年のサンダンス映画祭において、ドキュメンタリー部門の観客賞を受賞した作品です。
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目次
スタッフ・キャスト
監督:アシフ・カパディア
脚本:マニッシュ・パンディ
出演:アイルトン・セナ
アラン・プロスト
ほか
あらすじ
- アイルトン・セナは、1960年、裕福な地主でもありブラジル国内で有数の経営者の父親ミルトン・ダ・シルバの長男としてブラジルの最大の都市、サンパウロに生まれます。4歳の時に、父親からレースカートを与えられたセナ少年は、生まれつきレースの才能に恵まれており、すぐにレースに夢中になります。
- 天才的なドライビング・テクニックと「誰よりも早く走りたい」という闘争心で、セナは1984年、若干24歳でF1デビューを果たします。ロータス、マクラーレン、そしてウィリアムズと名門チームを渡り歩き、瞬く間に世界の頂点へと登り詰め、3度もワールドチャンピオンに輝きます。
- 1994年のサンマリノGPで衝撃的な事故死を遂げたセナの34年の生涯を、レース映像や貴重なプライベート映像を交えながら振り返り、華々しい経歴の陰で起きていた、宿命のライバル、アラン・プロストとの確執や、FISA(国際自動車スポーツ連盟)会長の政治的圧力に苦悩する日々を、本人へのインタビューやチーム関係者、家族らの証言を通して明らかにしていきます。
レビュー・解説
世界最速とも言われる果敢な走りのみならず、誰よりも早く走ることを愛し、政治や金の影響を嫌ったセナの人間的側面を浮かび上がらせる本作は、レースファンならずとも心揺さぶられる、優れたドキュメンタリーです。
数字から言えば、歴代のF1レーサーの中で圧倒的に強いのはミハエル・シューマッハですが、イギリスの雑誌「F1レーシング」でシューマッハやライバルだったアラン・プロストを抑えて「世界最速のF1ドライバー」、「世界で最も偉大なF1ドライバー」のトップにランクされるなど、アイルトン・セナの人気には未だに根強いものがあります。そんなセナの世界最速とも言われる果敢な走りのみならず、誰よりも早く走ることを愛し、政治や金の影響を嫌った彼の人間的側面を浮かび上がらせる本作は、残した記録以上に人々の記憶に強く残り、レースファンならずとも心揺さぶられるセナの魅力を余すところなく描いたドキュメンタリーです。
順位 | ドライバー | 活動期間 |
ドライバーズ ・チャンピオン |
優勝回数 |
ポール・ ポジション |
---|---|---|---|---|---|
1 | ミハエル・シューマッハ | 17年 | 7回 | 91回 | 68回 |
2 | ファン・マヌエル・ファンジオ | 8年 | 5回 | 24回 | 29回 |
3 | アラン・プロスト | 12年 | 4回 | 51回 | 33回 |
セバスチャン・ベッテル | 10年〜 | 43回 | 46回 | ||
5 | ジャック・ブラバム | 16年 | 3回 | 23回 | 13回 |
ジャッキー・スチュワート | 19年 | 27回 | 17回 | ||
ニキ・ラウダ | 13年 | 25回 | 24回 | ||
ネルソン・ピケ | 17年 | 23回 | 24回 | ||
アイルトン・セナ | 10年 | 41回 | 65回 | ||
ルイス・ハミルトン | 10年〜 | 53回 | 62回 |
時代や規制、車の違いなどがある中で、誰が一番早いかと絶対的な議論するのは難しいのですが、一部、映画で紹介されているように、
- 1985年2戦ポルトガルGP、1988年第2戦サンマリノGP、同第6戦デトロイトGPで、いずれも3位以下を周回遅れにするという、圧倒的な速さを見せた。
- 既に2度のタイトルを獲得していたプロストとコンビを組んだマクラーレン時代、プロストと同じ車に乗りながら、ラップで最大2秒近い差をつけていた。コンピューター解析によると、セナは、コーナーでアクセルを小刻みに煽る、通称「セナ足」という独自のテクニックで100 - 300回転ほどの差を付けており、また、シフトアップのタイミングを遅らせ、高回転域を使い切っていることがわかった。
- エンジン破壊の原因となる部品の不具合を事前に察知した、コースの各位置におけるエンジンの回転数を50回転単位で記憶していた、壁との間をわずか2センチで走り抜けるなど、車両の状態に関する感受性が頭抜けており、メカニックは彼と一緒に仕事をすることを喜んだ。同じ車両で走るとプロストが早いかもしれないが、セナのセンス通りセッティングをすればセナが確実に早くなると言われた。
- 1988年第3戦モナコGPでは、圧倒的な速さを見せ、充分なマージンを築きながらトップを走行するも、果敢に攻めることを止めず、67周目にガードレールにクラッシュ、リタイヤした。
- 1988年第15戦日本GPでは、スタートに失敗、1コーナーを14位で通過するも、オープニング・ラップで8位まで挽回、次々にオーバーテイクしながら、27周目に首位のプロストを捉え、次の1コーナーで追い抜き、そのまま首位でチェッカーフラッグを受けた。
- 1993年第3戦ヨーロッパGPでは、1コーナーを5位で通過するも、2コーナーでシューマッハを、4コーナー手前でベンドリンガーを、7コーナーでヒルをオーバーテイク、10コーナーでプロストを抜き去り、オープニングラップで首位に立った。予選でのタイム差や抜かれたドライバーたちの顔ぶれから、その凄さが伺われるこのラップは「雨のドニントン」と呼ばれ、「下手に付いて行かない方がいいと直感した」、「F1史上最も記憶に残るレース」、「オープニングラップですべてのドライバーの戦意を喪失させた」などと、歴代のチャンピオンや当時のドライバーたちが驚嘆した。
その速さや技術の高さが評価されている一方で、果敢な走りに対する批判もあります。映画でも紹介されていますが、先輩格のF1レーサーであるジャッキー・スチュワートは、セナへのインタビューで事故が多いことを指摘しています。これに対しセナは、
あなたのような経験豊かなチャンピオンドライバーの発言として驚きだ。我々F1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない。優勝をするために全力でレースを闘っている。レーシング・ドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ。僕には僕の思ったことしかできない。
と反論、誰よりも早く走ることへのセナの執念が伺われます。
また、シューマッハが「皇帝」、プロストが「プロフェッサー」と呼ばれ、冷徹で無愛想なイメージがつきまとうのに対して、「天才」、「魔術師」、「貴公子」などと呼ばれたセナは、プロストとのライバル関係や FISA の政治的な圧力に抵抗する姿に人間味が感じられるのも、彼の人気の秘密でしょう。プロストとのライバル関係で最も有名なのは、1989年、1990年の日本GPをめぐる確執です。
- セナがタイトルを獲得するためには勝たねばならず、プロストはセナがノーポイントであればタイトル獲得が決まる1989年第15戦日本GPで、プロストに先行されたセナは、47周目のシケインでプロストのイン側に飛び込み、意図的に切り込んだプロストと激突、2台のマシンは停止し、プロストはマシンを降りたが、タイトル獲得には勝つしかないセナは、マーシャルにマシンを押してもらい、シケインをショートカットする形でレースに復帰する。トップでチェッカーを受けるが、レース終了後、失格処分を受け、プロストのタイトル獲得が決定する。
- プロストがノーポイントであればセナのタイトル獲得が決まるという、前年とは逆の立場で迎えた1990年第15戦日本GP、スタートで出遅れたセナは、1コーナーでアウトから切り込むプロストにインを譲らず、2台のマシンは接触してグラベルに弾き出され、共にリタイア、セナのタイトル獲得が決定する。前年のプロストとの接触に対するセナの報復行為として非難を浴びた。
これは単にセナとプロストのライバル関係だけの問題ではなく、政治や金が絡み、またメディアに煽られての問題という側面もあります。セナは、カート時代の金や政治が絡まない純粋なレースを理想としており、日本GPにおける彼の行動には、そうしたものへの怒りの発露と捉えることができます。
圧倒的な速さと、プロストのライバル関係でF1を沸かせたセナですが、プロストが引退した翌年の1994年第3戦サンマリノGPで、事故の為、命を落としてしまいます。ペレ、ジーコと並ぶブラジルの国民的英雄だったセナの事故に関して、イタリア政府はブラジル政府に配慮する形で裁判で事実を明らかにする道を選びます。チーム・ウィリアムズ、FIA関係者、イモラ・サーキット関係者が起訴され、「改造されたステアリングの金属疲労が事故原因」として過失致死罪を問われますが、証拠不十分により無罪となります。映画では、
セナがタンブレロでミスをするわけがない。マシンに問題があったんだ。パワステの故障か、タイヤ温度が上がらず滑ってしまったのか、今でも謎だ。
原因は一体、何だ。個人的にはステアリングコラムが壊れ、制御不能に陥ったと考える。
とにかく決定的だったのは、壁に衝突した角度が悪くてサスのシャフトが飛び、ヘルメットを突き破ったことにある。運が悪かったんだ。彼の体に骨折はなく、打撲傷もなかった。飛んだパーツが上下に15センチずれていれば、彼は歩いて戻れただろう。
という証言が紹介されています。
事故当時、ウィリアムズのデザイン・エンジニアとして被告となり、現在レッドブルのチーフ・エンジニアを務めるエイドリアン・ニューウィは、未だにこの映画を見ることができないと言います。
あのあと、わたしの少ない髪の毛は全部抜けてしまった。だからわたしは肉体的に変わってしまった。恐ろしかった。パトリック・ヘッドとわたしは、レーシングを続けたいのかどうか自問したよ。自分たちがつくったマシンで他人が死ぬようなスポーツにわたしたちは関わりたいのだろうか? さらに、この事故は設計ミスによって故障した部品が原因だったのだろうか? それから裁判が始まった。
裁判は気がめいるような頭痛の種で、余分なプレッシャーだった。でもF1に関わりたいのかという疑問をもつことはなかった。本当に重要だったのは非難よりも反省だった。
チーム全体にとって、とても難しい時期だった。レースの翌日は銀行休業日の月曜で、わたしたち数人はデータを探して何が起きたのかを解明しようとした。暗い数週間だった。
正直なところ、正確に何が起きたのかは誰にもわからないだろう。ステアリング・コラムが故障したのは間違いないが、事故で故障したのか、故障が事故の原因になったのかはわからない。疲労亀裂があったので、どこかの時点で壊れたのかもしれない。設計が非常にまずかったのは間違いない。しかしあらゆる証拠は、コースアウトの原因がステアリング・コラムの故障ではなかったことを示している。
右リア・タイヤがおそらくトラック上の破片を拾ってパンクしたため、マシンのリアがぶれた。最も可能性の高い原因をひとつ挙げろと言われたら、これになるだろう。(エイドリアン・ニューウィ)
事故当時のオンボード映像やデータを見てみましたが、様々な原因を憶測することはできても、特定することは難しい印象です。ウィリアムズが車体の電子制御を規制されたこの年、思うように仕上がらない車体にセナは苦労していました。また、事故が起きた高速コーナーは車が跳ねやすく、セナはその危険性を指摘していました。そんな中で事故に見舞われるわけですが、ひとつ明確なのは、異常を検知してから壁に激突するまで約一秒余りの間に、セナはシフトダウンし、300キロを超える速度を200キロまでに減速させていたことです。映画にもあるのように、壁へ当たる角度さえ良ければ、彼は死ぬことは無かったと思われます。
F1ドライバーの頂点にありながら急逝してしまったセナに、ライバルだったプロストは、次のように語っています。
事故から3か月たった今でも、ほとんど毎日セナのことを考えています。彼がいなくなったことで、僕のF1での大切な思い出が消えてしまいました。セナはレースでやる気を起こすためにはライバルが必要だという事に気付きました。セナには僕が必要だったのです。「僕」を倒すために彼は燃えたのです。でも、我々の間にはお互い尊敬の気持ちがありました。一年間レースをやめていた時でも、セナとはよく電話で話をしました。セナは、僕がいないとやる気が起きないと言っていました。「今年のセナはもうレースへの情熱を持っていない」と感じました。彼は、いつまでも挑戦者でいたかった。しかし、守る立場に立たされてしまったのです。若いレーサーを相手にトップの座を守らなければならない、それは非常に難しいことだったでしょう。セナが僕を一番魅了させたのは 「レースで100%集中していたこと」。簡単に100%と言うけれど、実際に100%集中するのはとんでもないことです。僕には家庭もあるし、休暇もある。ゴルフや自転車、スキーにも夢中になります。ですから、僕の場合、95%、いや98%くらいレースに捧げていると思っています。しかし、セナの場合、大切なものはレースだけなのです。また僕の乗るマシンに何らかのトラブルが生じた時、僕ならすぐにピットに入ると思います。でも、セナは違いました。彼は本能で走ろうとするのです。今となっては、セナと共に走ったこと、それが僕にとって一番大切な思い出です。(アラン・プロスト)
セナの死は、シューマッハにも大きな影響を与えました。事故の際、セナを追い上げ、プレッシャーをかけていたシューマッハは、セナが病院に搬送された後に再開されたレースで優勝しますが、彼の死を聞いて、モーターホームに閉じこもって泣き続けたと後に語っています。彼に責任は無いのですが、あたかも彼がセナを死に追いやったように捉えられたシューマッハは、ブラジル国民に目の敵にされ、葬儀にも参列できず、後にひっそりと墓参りをしています。2000年のイタリアGPでセナに並ぶ通算41勝目を挙げ、レース後の記者会見でその感想を質問されると、彼は突然カメラの前で号泣しはじめました。シューマッハはその理由について語ることはありませんでしたが、英雄セナを死に追いやった男として汚名を着せられた彼は、セナを超える記録で自らが英雄になるしか自分を正当化できないという、重い十字架を背負ったのではないかと思います。その後、誰もが超すことができない圧倒的な記録を作り、引退したシューマッハですが、スキー中の事故で麻痺と言語及び記憶障害が残り、車椅子での生活を余儀なくされ、人前に姿を現すこともできないのは、強烈な運命の皮肉のようでもあります。
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マクラーレン ホンダF1 1988 A.セナ(Amazon)
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撮影地(グーグルマップ)
- セナが激突したイモラ・サーキットのタンブレロ・コーナー
事故現場にはブラジル国旗などが飾られている。
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関連作品
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「グラン・プリ」(1966年)
「ウィークエンド・チャンピオン ~モンテカルロ 1971」(1972年)
「アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ」( 2010年)
「1: Life on the limit」 (2014年)・・・輸入版
「McLaren: The Film」(2017年)・・・未公開