夢は洋画をかけ廻る

洋画のレビューや解釈、解説、感想、撮影地、関連作品などを掲載しています。タイトルは、松尾芭蕉最後の句と言われる「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」由来です。病に伏してなお、夢が枯野をかけ廻るとは根っからの旅人だったのですね。映画はちょっとだけ他人の人生を生きてみる、いわば人生の旅のようなもの。願わくば、芭蕉のような旅の達人になりたいものです。

「イングリッド・バーグマン〜愛に生きた女優」:大胆な決断で時代を先駆けた伝説的ハリウッド女優の人間的な魅力を描くドキュメンタリー

イングリッド・バーグマン〜愛に生きた女優〜」(原題:Jag är Ingrid、英題:Ingrid Bergman: In Her Own Words)は、2015年公開のスウェーデンドキュメンタリー映画です。イングリッド・バーグマンの生誕100周年を記念し、カンヌ国際映画祭でプレミア上映された作品で、スティーグ・ビョークマン監督、アリシア・ヴィキャンデルのナレーションで、アカデミー賞に3度輝いた大女優が残した写真や日記、手紙、プライベート映像などから、一人の女性としての実像を浮き彫りにします。

 

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目次

スタッフ・キャスト

監督:スティーグ・ビョークマン
脚本:スティーグ・ビョークマン/スティーナ・ガーデル/ミニカ・ダウベンビュッフェル
語り:アリシア・ヴィキャンデル
出演:ジャニーン・ベシンガー(本人)
   ピア・リンドストローム(本人)
   フィオレラ・マリアーニ(本人)
   イザベラ・ロッセリーニ(本人)
   イングリッドロッセリーニ(本人)
   ロベルト・ロッセリーニ(本人)
   リブ・ウルマン(本人)
   シガニー・ウィーバー(本人)
   ほか

あらすじ

「別離」(1939年)でハリウッドに進出し、「カサブランカ」(1942年)などに出演、「ガス燈」(1944年)と「追想」(1956年)でアカデミー賞主演女優賞を、「オリエント急行殺人事件」(1974年)で同助演女優賞を受賞し、ハリウッド黄金期の中でもひときわ輝く才能を見せた大女優イングリッド・バーグマン。聖女のイメージを持たれていた一方で、不倫騒動から悪女のレッテルを貼られ、激しいバッシングを受けて、一時はハリウッド映画から離れざるを得なくなりました。それにも関わらず、死後も人々を魅了してやまない彼女の軌跡を、彼女が肌身離さず持ち歩いたカメラに収められていた写真や、日記、手紙、プライベート映像、そして彼女の子どもたちであるピア・リンドストロームイザベラ・ロッセリーニイングリッドロッセリーニロベルト・ロッセリーニのインタビューを交えて辿ります。

レビュー・解説

キャリアを持つ女性として大胆な決断をし、時代を先駆けたハリウッドの伝説的女優の私的な部分に光を当て、その人間的な魅力をヴィヴィッドに描き出したドキュメンタリーです。

 

伝説的ハリウッド女優、イングリッド・バーグマンナチュラル・ビューティ、いわゆる素顔美人ですが、演技も確かで、アカデミー女優賞に7回ノミネートされ、3度、受賞している大女優です。

  • 「誰が為に鐘は鳴る」(1943年)主演女優賞 ノミネート 
  • 「ガス燈」(1944年) 主演女優賞 受賞 
  • 「聖メリーの鐘」(1945年) 主演女優賞 ノミネート
  • 「ジャンヌ・ダーク」(1949年)主演女優賞 ノミネート
  • 追想」(1956年)主演女優賞 受賞
  • オリエント急行殺人事件」(1974年) 助演女優賞 受賞 
  • 秋のソナタ」(1978年 )主演女優賞 ノミネート

1980年に600ページを超える自伝「イングリッド・バーグマンマイストーリー」が発表され、知人の女性がこの分厚い本をむさぼるように読んでいたのが印象に残っています。本を読む代わりにと気軽に本作を観てみましたが、なかなかの傑作です。バーグマンの出演作はいくつか観ているものの、良く覚えているのは「カサブランカ」(1942年)くらいという不届き者でしたが、彼女の生き方を本作で観ていっぺんにファンになってしまいました。

恋多き女優の実像

生涯に三度、結婚し、三度、離婚したバーグマンは恋多き女と言われ、特にアメリカに夫と娘を残し、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督との不倫に走った際は、ハリウッドとアメリカ国民から激しいバッシングを受けます。「愛に生きた女優」という邦題の副題も恋多き女優を連想させますが、写真や日記、手紙、プライベート映像などの彼女が残した膨大な資料、そして彼女の子どもたちであるピア・リンドストロームイザベラ・ロッセリーニイングリッドロッセリーニロベルト・ロッセリーニのインタビューから伝わってくるのは、むしろ彼女の演技への情熱、家族や子どもたちへの深い愛です。1945年まで続いた彼女の日記に夫への想いを綴ったものはほとんどなく、また1980年に発表された自伝にもスキャンダルに関する記述しかありません。もちろん、これは彼女にパートナーへの情熱が無かったことを意味するものではありませんが、彼女の演技への情熱、家族や子どもたちへの愛情が芸術家でありカメラマンであった父がバーグマンをよく撮影したことに関連することを本作は示唆しています。

 

「1928年4月。パパを助けてください。〜」というバーグマンの日記を朗読するアリシア・ヴィキャンデルの声で本作は始まり、オープニング・クレジットが流れ、ヴィキャンデルの声で、

ナレーション:私はイングリッド。これは私の物語。人生を振り返った時に誰がいて、何が残っているのか?私は何でも取っておく。あらゆる箱、スーツケースが満杯。いつでも思い出が一緒だ。

と続きます。この部分はバーグマンが保管していた資料の豊富さに感嘆したビョークマン監督が挿入したもので、原題の「Jag är Ingrid」(私はイングリッド)はこのナレーションの最初の言葉を取ったものです。これは同時に、このドキュメンタリーがバーグマン自身の視点で描かれたものであることを示唆していますが、「自分の生き方を生きる」というバーグマンの姿勢をも暗示しているかのようで、私はこのタイトルが最も好きです。

 

因みに、英題の「Ingrid Bergman: In Her Own Words」(イングリッド・バーグマン:自らを語る)は、原題の意図を汲みながら、英語でよりわかりやすく表現したもので、アメリカに悪女のレッテルを貼られ、バッシングされたバーグマンが、自身の言葉で自らを語るというニュアンスが感じられます。しかし、邦題の「イングリッド・バーグマン〜愛に生きた女優〜」はちょっと悲しくなります。仕事への情熱、家族や子供たちへの愛を含めて「愛に生きた女優」という意味ならば結構ですが、恋多き女優という前提で「愛に生きた女優」と副題をつけておけば女性客を見込めるという発想ならば最悪です。「愛に生きた」に女性客が反応するかどうかは疑問ですし、本作で描かれているのはパートナーへの愛よりも、仕事への情熱と家族や子供たちへの愛です。

 

イングリッド・バーグマン(中央)と4人の子供たち

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演ずることと愛すること

彼女の主なライフ・イベントは、

  • 1937年(22歳) 歯科医ペッテル・リンドストロームと結婚、翌年、 娘ピアを出産
  • 1939年(24歳)生まれたばかりの娘と夫をストックホルムに残し、「別離」の撮影の為に単身渡米
  • 1940年(25歳)ハリウッドでの本格的活動に備え、再渡米、翌年、 夫と娘をアメリカに呼び、撮影の合間に彼らを訪ねる生活を始める(家庭生活と女優活動は両立しないという考えから、生活を分けていたと言われる)
  • 1947年(32歳) ハリウッドで成功するも行き詰まる中、ロケ先のパリで写真家ロバート・キャパと束の間の恋(1980年発表の自伝で初めて明らかに)
  • 1949年(34歳) 新境地を求めイタリアで「ストロンボリ」撮影中、ロベルト・ロッセリーニ監督と不倫(ハリウッドとアメリカ国民に激しくバッシングされる)
  • 1950年(35歳) 息子ロベルトを出産、リンドストロームと離婚、アメリカに娘を残しロッセリーニと再婚、ローマに居を構え、ロッセリーニ作品に出演するようになる
  • 1952年(37歳) 双子の娘イゾッタ・イングリッドとイザベラを出産
  • 1957年(42歳) ロッセリーニ作品が興行的に成功せず、破産状態になり、反対を押し切って他の監督の作品に出演、ハリウッドに再び評価されるが、インド女性との間に子を持ったロッセリーニと険悪になり、離婚
  • 1958年(43歳) スウェーデン出身の演劇プロモーター、ラルス・シュミットと再婚、子どもたちをローマに残し、パリに居を構えて新たなる女優活動に備える
  • 1975年(60歳) シュミットと離婚、演劇環境の整ったロンドンに住む

となりますが、良く見ると彼女が単に恋多き女優だったというよりは、パートナーとの出会いや生活が彼女の女優としての活動と深く関係していることを示唆しています。必ずしもパートナーに対する情熱がなかったとか、キャリアの為にパートナーを利用したということではありませんが、彼女の女優活動への情熱とパートナーへの思いが表裏一体だったことを暗示しています。

 

1915年にストックホルムに生まれたバーグマンは、2歳の時に母を失い、14歳の時に父を失います。17歳の時にストックホルムの王立ドラマ劇場のオーディションに受かり、国の奨学金で演劇学校へ入学しますが、バーグマンは子供の頃から女優を志していたと言われます。

(幼くして両親を亡くした)私は、とても寂しく悲しい子供でした。キャラクターを作り話しかけることにより、私は救われていました。というのは、私はとても内気で、学校で誰にも話しかけることができなかったのです。私は想像上のキャクターにいつでも話したいことを話すことができ、彼らはいつでも答えてくれました。自分がしていることが演技であるに気づかないまま、私は女優になりました。現実を逃れて想像の世界を楽しんでいたのです。(イングリッド・バーグマン

また、バーグマンの娘達は口を揃えて、

  • ロバート・キャパを含めて、バーグマンが愛した人々はすべてレンズを彼女に向ける人だった(ラルス・シュミットは興行主だが、撮影もする)。
  • バーグマンの父は彼女をよく撮影し、彼女はポーズをとったが、バーグマンにとってレンズの向こうにいるのは愛する人で、彼女もレンズを通して愛を表現した。

ことを指摘しています。バーグマンにとって演技は自己救済であり、また愛と表裏一体であったことを示唆しています。

時代を先駆けた大胆で革新的な現代女性

生涯、演技への情熱に突き動かされたバーグマンですが、女優活動と家庭生活の両立が難しいことを知る一方で、決して子供たちをないがしろにしてわけではありません。女友達とやりとりした膨大な手紙には子供たちのことしか書かれておらず、撮影の合間には月単位で子供たちと共に過ごしたといいます。半年以上に渡る舞台活動の際は、子供たちを楽屋に呼び寄せることもあったと言います。母には女優として子供たちと離れて活動する時間が必要であることをイザベラ・ロッセリーニは子供心に悟っていましたが、彼女が脊柱湾曲症になった時に二年間付き添ってくれた母に、いざという時には自分と一緒にいてくれると感じたそうです。また、バーグマンは常にカメラを手に、家族とのひと時を記録していました。幾度もの引っ越しにも関わらず、バーグマンはこうした写真や、日記、手紙、プライベート映像などをことごとく保管していましたが、幼くして両親を亡くしたバーグマンとってこれらは家族の愛を感じる為にとても大切なものだったと、ピア・リンドストロームは指摘しています。

 

単に類まれなる美貌に恵まれた恋多き女優と見られることもある彼女ですが、これはあまりに一面的です。「別離」の為に彼女をハリウッドに呼び寄せたプロデューサーのデヴィッド・セルズニックは「英語が話せない、背が高すぎる、名前があまりにドイツ風だし眉も太すぎる」ことを懸念していたといいますが、バーグマンはこうした懸念とは裏腹に大胆な決断し、ライフステージやキャリア、パートナーに応じて、住む場所を変えながらキャリアを築いていきました。

彼女の自伝はずっと前に読んでいましたが、多くの資料から最も衝撃を受けたのは、彼女が時代を先駆けた真の現代女性であったことです。政治的な活動はしませんでしたが、彼女の生き方や私的生活とキャリアの分離はとても革命的で、彼女は非常に勇気ある選択をしています。23歳でハリウッドに行く前、スウェーデンで三本の映画を撮った後に、「そしてハリウッド・・・、でも私は英語を話せない」と彼女は日記に書いています。しかし、彼女は映画、舞台の双方をスウェーデン語、映画、フランス語、イタリア語で演じる女優になりました(他にドイツ語の映画にも出演している)。私が知る限り、こんな女優は彼女だけです。驚くべき能力です。

彼女は1940〜50年代を、男性のように生きました。彼女にとってキャリアは非常に重要でした。彼女は不在なことがとても多い母でしたが、それでも母であったことは明らかです。家族と共に過ごす時はきっちりと母を務め、そして再び映画撮影や舞台の為に為に出ていく。彼女の4人の子供たちはすべて、人生で成功しています。彼らが就いた職業、彼らの選択した人生を見るにつけても、バーグマンの育て方が酷すぎるということはなかったと思われます。(スティーグ・ビョークマン監督)

 

2012年に、アメリカの国際法学者、国際政治学者でプリンストン大学教授、国務省政策企画本部長を務めたこともあるアン・マリー・スローター女史が、雑誌に「女性は仕事と家庭を両立できない」という論文を寄稿し、大きな論争を引き起こしました。また、2014年には、インド系アメリカ人の女性でペプシコのCEOであるインディラ・ヌーイが同じく「女性は仕事と家庭を両立できない」と表明し、話題になりました。女性の解放が進んでいるアメリカでさえ未だに解決できない問題ですが、今を遡ること半世紀余り、バーグマンは大胆に決断し、彼女なりにこの問題に対処していたのは驚きです。未だ正解のない問題ですが、激しいバッシングを浴びてアメリカを去って7年、再びアメリカの土を踏んだ時のインタビューで「ここ数年の出来事を後悔していないか?」と問われた際の彼女の答えが、彼女の生き方を端的に表しています。

私は自分がやったことを後悔しません、後悔するのはやらなかったことです。ずっと素晴らしい人生を過ごせてきたし、私はやりたいことをやってきました。私は勇気と冒険心に恵まれました。それが私の原動力です。あとはユーモアとわずかばかりの常識、おかげで豊かな人生を過ごしています。(イングリッド・バーグマン

 

アリシア・ヴィキャンデル(声のみ、イングリッド・バーグマン

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アリシア・ヴィキャンデル(1988年〜)は、ヨーテボリ出身のスウェーデン女優。「ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮」(2012年)、「戦場からのラブレター」(2014年)、「エクス・マキナ」(2015年)などに出演、「リリーのすべて」(2015年)でアカデミー助演女優賞を受賞している。本作では、イングリッド・バーグマンの視点でナレーションを務める。

 

ジャニーン・ベシンガー(本人)

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ジャニーン・ベシンガー(1936年〜)は、イングリッド・バーグマンの資料が保管されている米ウェズリアン大学に映画アーカイブを創設、長年に渡って教授とキュレーターを務めた映画史研究家。

 

ピア・リンドストローム(本人)

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ピア・リンドストローム(1938年〜)はストックホルム出身のTVジャーナリスト。バーグマンの最初の娘。

 

イザベラ・ロッセリーニ(本人)

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イザベラ・ロッセリーニ(1952年〜)は、ローマ出身のイタリアの女優。ロベルト・ロッセリーニとバーグマンの娘で、容貌は母の面影を残す。「ブルーベルベット」(1986年)、「シェフとギャルソン、リストランテの夜」(1996年)、「トゥー・ラバーズ」(2008年)などに出演している。

 

イングリッドロッセリーニ(左から二人目、本人)と

ロベルト・ロッセリーニ(左端、本人)

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イングリッドロッセリーニ(1952年〜)は、ロベルト・ロッセリーニとバーグマンの娘で、イザベラ・ロッセリーニと双子の姉妹。ロベルト・ロッセリーニ(子)はロベルト・ロッセリーニ(父)とバーグマンの息子。

 

リブ・ウルマン(右から二人目、本人)とシガニー・ウィーバー(左端、本人)

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リヴ・ウルマン(1938年〜 )は、東京生まれのノルウェーの女優、映画監督。ロンドンで演技を学び、1950年代よりノルウェーで舞台に立つ。1957年に映画デビュー、「仮面/ペルソナ」(1967年)、「サラバンド」(2003年)などに出演、「移民」(1972年)、「鏡の中の女」(1976年)でアカデミー主演女優賞にノミネートされた実力派女優で、「秋のソナタ」(1978年)でバーグマンと共演している。
シガニー・ウィーバー(1949年〜)は、マンハッタン出身のアメリカの女優。イェール大学で演技を学び、1975年に初めての仕事で演出助手を務めたバーグマンの舞台に感銘を受ける。「アニー・ホール」(1977年)、「エイリアン」シリーズ(1979〜1997年)、「ゴーストバスターズ」(1984年)、「デーヴ」(1994年)、「死と処女」(1975年)、「アイス・ストーム」(1998年)、「ギャラクシー・クエスト」(1999年)、「アバター」(2009年)、「バッドトリップ! 消えたNO.1セールスマンと史上最悪の代理出張」(2011年)などに出演、1988年公開の「ワーキング・ガール」と「愛は霧のかなたに」でアカデミー助演女優賞、同主演女優賞にノミネートされている。

サウンドトラック

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"Ingrid Bergman in Her Own Words" Original Soundtrack(Amazon MP3)

1 How Should I Live
2 Ingrid the Star
3 Ingrid in New York
4 First Marriage
5 I Don't Demand Too Much
6 Roma
7 Pia
8 Rossellini
9 Bergman vs Bergman
10 Children of Ingrid Bergman
11 I Was the Third Child
12 Frankyln
13 Debbie
14 1-100

エンディング・テーマ曲「The Movie Abouot Us」*4

動画クリップ(YouTube

  • 「別離」(1939年)のカメラ・テスト
    口紅のみのノーメイク。撮影時23歳、健康的で美しく、既に娘がいるとは思えない。素顔が美しいナチュラル・ビューティで、メイクの濃いハリウッド映画に一石を投じることになる。役柄も清楚で貞節なものが多かっただけに、後のロッセリーニ監督との不倫は人々により大きな衝撃を与えた。
  • ニューヨークでのプレミア上映後のインタビュー
    ビョークマン監督は質問に答えている最中に「質問は何だったけ?」と聞き返したり、回答のピントが少しずれていたりなどと茶目っ気たっぷり。監督の誠実さ暖かさがひしひしと伝わってくる。
  • 最初の娘ピア・リンドストロームへのインタビュー
    最初の娘ピア・リンドストロームへのインタビュー。アメリカに置いて行かれたピアは、一見、距離を置いているように見えるが、実は母を愛していることが感じられる。4人の子供たちの中ではイザベラ・ロッセリーニが最も著名ではあるが、作中では4人のインタビューや映像を均等に扱っており、バーグマンが我が子同様に可愛がった義理の姪のフィオレラ・マリアーニのインタビューや映像もふんだんに織り込まれている。皆、個性的だが、それぞれの形でバーグマンを愛しているのが伝わってくる。
  • 「秋のソナタ」(1978年)撮影時のエピソードを紹介するリヴ・ウルマン
    本作の中でも紹介されているが、不在がちだったピアニストの母(バーグマン)に不幸は母のせいと娘(リヴ・ウルマン)が詰め寄るシーンで、母が娘に謝る演出をするベルイマン監督と、私なら娘をひっぱたくというバーグマンが対立したと言う。バーグマンは意見を聞いてくれるベルイマン監督を尊敬していたが、巨匠ベルイマンに実際に逆らう俳優はいなかった。仕事をする母親はそれを気後れしては子供の為にならないと言うが、バーグマンの実生活の姿勢を感じさせるエピソードでもある。
  • エンディング・テーマ曲のミュージック・ビデオ
    ビョークマン監督の友人のスウェーデンのポップ・シンガー、エヴァ・ダールグレンが、密かにプロデューサーにアプローチ、本作へのオマージュとしてミュージック・ビデオを制作した。本作の撮影監督ともコラボし、ビデオの中でバーグマンのようにスーパー8を構えている。ビョークマン監督とコラボしたマイケル・ナイマンの曲に詞をつけて歌い、本作のエンディング・テーマに使用されている。

撮影地(グーグルマップ)

 

 

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関連作品

イングリッド・バーグマンの自伝Amazon

イングリッド・バーグマン「マイストーリー」

 

イングリッド・バーグマン出演作品のDVD(Amazon

  「別離」(1939年)

  「カサブランカ」(1942年)

  「ガス燈」(1944年)

  「白い恐怖」(1945年)

  「聖メリイの鐘」(1945年)

  「汚名」(1946年)

  「ストロンボリ/神の土地」(1949年)

  「イタリア旅行」(1953年)

  「追想」(1956年)

「無分別」(1958年)・・・VHS

  「サボテンの花」(1969年)

  「オリエント急行殺人事件」(1974年)

  「秋のソナタ」(1978年)

 

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  「ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮」(2012年)

  「戦場からのラブレター」(2014年)

  「エクス・マキナ」(2015年)

  「リリーのすべて」(2015年)

 

イザベラ・ロッセリーニ出演作のDVD(Amazon

  「ブルーベルベット」(1986年)

  「シェフとギャルソン、リストランテの夜」(1996年)

  「トゥー・ラバーズ」(2008年)  

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