夢は洋画をかけ廻る

洋画のレビューや解釈、解説、感想、撮影地、関連作品などを掲載しています。タイトルは、松尾芭蕉最後の句と言われる「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」由来です。病に伏してなお、夢が枯野をかけ廻るとは根っからの旅人だったのですね。映画はちょっとだけ他人の人生を生きてみる、いわば人生の旅のようなもの。願わくば、芭蕉のような旅の達人になりたいものです。

「アクトレス~女たちの舞台~」:世代交代に直面、過ぎ行く時間と対峙するスター女優の葛藤を、現実と劇中劇の間でスリリングに描く

アクトレス~女たちの舞台~」(原題:Sils Maria)は2014年公開のフランス・スイス・ドイツ合作のヒューマン・ドラマ映画です。監督・脚本オリヴィエ・アサイヤスジュリエット・ビノシュクリステン・スチュワートクロエ・グレース・モレッツら出演で、華やかな世界を歩んできたスター女優の光と影を、スイスの美しい大自然、シャネルの華美な衣装、心に染み入るようなクラシック音楽とともに描いています。第40回セザール賞で、クリステン・スチュワートアメリカ人女優として初めて助演女優賞を受賞した作品です。

 

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目次

スタッフ・キャスト

監督:オリヴィエ・アサイヤス
脚本:オリヴィエ・アサイヤス
出演:ジュリエット・ビノシュ(マリア・エンダース)
   クリステン・スチュワート(ヴァレンティン)
   クロエ・グレース・モレッツジョアン・エリス)
   ラース・アイディンガー(クラウス)
   ジョニー・フリン(クリストファー)
   アンゲラ・ヴィンクラー(ローザ・メルヒオール)
   ハンス・ツィシュラー(ヘンリク)
   ほか

あらすじ

スター街道を歩んできた女優マリア(ジュリエット・ビノシュ)と、彼女と二人三脚で仕事に取り組むマネージャーのヴァレンティン(クリステン・スチュワート)の二人は、新人女優の時にマリアを発掘、有名にしてくれた劇作家ヴィルヘルム・メルヒオールの代理として、彼の功績を称える賞を受け取る為に列車でチューリッヒに向います。ここ数年、公の場に姿を見せていないメルヒオールは、授賞式に出ることを断った上で、彼女の出世作である「マローヤの蛇」の由来でもある景勝地「シルス・マリア」に来るようマリアに伝えていましたが、彼女らが列車で移動する間にメルヒオールが亡くなったという知らせが届きます。 予定通りチューリッヒに向かった彼女に、「マローヤの蛇」のリメイクへの出演の声がかかります。しかし、オファーされたのはかつて演じた若き美女ではなく、美女に翻弄される中年の上司役でした。主演はハリウッド映画で活躍する新進の女優ジョアン(クロエ・グレース・モレッツ)に決まっていました・・・。

レビュー・解説 

世代交代に直面した中年のスター女優とそれに関わる女性たちを通し、過ぎ行く時間に対峙する女性の本質を、現実と劇中劇の虚実入り混じる世界の中に深く豊かに描いた、知的なスリリングで娯楽作品です。

 

男女を問わず寄る年波には勝てませんが、特に若さと美しさが大きな意味を持つ女性の場合、年齢がアイデンティティに与える影響は決定的と言ってもよいかもしれません。現に、50歳以上の女優が主役を演じる映画はほとんどなく、中年の女優と新進の女優の世代交代をめぐる攻防は、生々しくもスリリングな映画のテーマになります。映画公開時50歳になるジュリエット・ピノシュは、長年協力関係にあった脚本家で監督のオリヴィエ・アサイヤスに、自らこの映画の製作を持ちかけたといいます。

 

女性の世代間の攻防を題材にしたものにフランスの作家フランソワーズ・サガンの小説「悲しみよ、こんにちは」(1954年)があります。コート・ダジュールの別荘を舞台に、父の新しい恋人に嫉妬する不安定な十代の娘が、父の愛人を利用して新しい恋人を死に追い詰める物語で、原作のヒットを受け、1958年にアメリカ・イギリスの合作により映画化されています。小説発表時、サガンは19歳で、物語は若い娘の視点で描かれています。一方、「アクトレス~女たちの舞台~」では、監督・脚本のオリヴィエ・アサイヤス、主演のジュリエット・ビノシュ、いずれも脂の乗り切った年齢で、物語は中年にさしかかったスター女優の視点で、過去に劇中劇を演じた中年女優の事故死などを匂わせながら、多層的に豊かに描いており、これが本作の最大の魅力になっています。

 

監督・脚本のオリヴィエ・アサイヤスは、「ランデヴー」(1985年、アンドレ・テシネ監督)の脚本で映画デビュー、この時、20歳のジュリエット・ビノシュが主役を演じています。その後、アサイヤス脚本、テシネ監督の「溺れゆく女」(1998年)を経て、「夏時間の庭」(2008年)で監督兼脚本家と主演女優という立場でアサイヤスとビノシュはコラボします。しかし、まだやるべきことがあると考えたビノシュは時間と対峙する女性の本質をより掘り下げて欲しいと、「過ぎゆく時間」を終生のテーマとするアサイヤスに囁いたと言います。

ジュリエットにとっても私自身にとっても、過去に遡り、現在そして未来について問いかけるべき時が来たと実感した。(オリヴィエ・アサイヤス監督)

 

監督兼脚本家、主演女優が自らの体験や問題意識を踏まえて描くわけですから、物語が面白くない訳がありません。必ずしも画一的な答えが提示されるわけではありませんが、様々な選択肢が提示される中を主人公がエンディングに向かっていく、リアルでスリリングな、見ごたえのあるドラマになっています。また、主人公の女優マリアのみならず、稽古で相手役を務めるマネージャーのヴァレンティン、かつてのマリアの役を演じる新進女優ジョアン、そしてクラウス、メルヒオール、ニコルソンの三人の劇作家が、重要な役割を果たします。

マリアとジュリエットを切り離して考えることはできませんが、マリアはジュリエットにまつわるキャラクターとして作り上げた想像上の人物です。似ている所もあれば違う所もあるでしょうが、ジュリエット自身もこの役を演じることを楽しんだと思います。映画を観る人が『ジュリエット・ビノシュはきっとこういう人だろう』と想像するイメージに、マリアは似ているのではないでしょうか。ジュリエットは完全にマリアと同じではありませんが、そうなったかもしれない人物として彼女は楽しく演じ、また逆に自分自身を作品に投影してくれたと思います。(オリヴィエ・アサイヤス監督)

  

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マリアの周囲で最も重要な役割を果たすのが、クリステン・スチュワート扮するマリアのマネージャー、ヴァレンティンです。本作にはマリアとジョアンの直接対決がほとんどありませんが、マリアとジョアンの双方の世界を受け入れることができるヴァレンティンが、マリアに脚本の解釈をぶつけながら、セリフ稽古の相手役を務めます。このセリフ稽古のシーンが圧巻で、役柄のヘレナとシグリッドの関係が次第にマリアとヴァレンティンの関係にオーバラップ、虚実入り混じってのスリリングな展開となります。

 

さらに驚きは、ジュリエット・ビノシュクリステン・スチュワートはそれまで会ったことがなく、この映画が初顔合わせなのですが、撮影前日にロケ地に入り、当日はリハーサルなしにぶっつけ本番で撮影しています。つまりは二人はセリフを覚えてきただけで打ち合わせなしに撮影に臨み、女優とマネージャーという毎日、顔をあわせる親密な間柄や、絶妙なやり取りを演じてしまうわけですから、いつものことながら俳優は凄いと思ってしまいます。「アリスのままで」で注目をしてはいましたが、改めてクリステン・スチュワートのパフォーマンスを見直してしまいました。

 

緊迫した駆け引きは、役柄の上だけではなく、女優同士にもあったようです。

水浴の場面はとても興味深く、さまざまな解釈が可能です。長回しのワンシーン、ワンショットですが、事前に話をしたのは「ふたりは暑くて水に入るが、水着やタオルは持って来ていない」ということだけ。いざ撮影が始まり、クリステンが下着のまま水辺に向かうと、ジュリエットは大急ぎで服を全部脱ぎ捨て走りだし、水の中に先に飛び込んだ。つまり、ジュリエットは全裸になるというリスキーな選択を、自ら率先して行ったわけです。いわば、あのシーンに現れているのは、私ではなく、彼女たちの自己主張です。(オリヴィエ・アサイヤス監督)

 

クリステン・スチュワートは「オン・ザ・ロード」(2012年)で脱いでいますが、もし水浴のシーンでフルヌードになってしまうと、ジュリエット・ビノシュの選択肢が狭まります。一方、ジュリエット・ビノシュが下着姿にとどまると、どうしても若いクリステン・スチュワートの方が際立ったしまいます。二人の女優は脚本に描かれていない選択を瞬時にしているわけです。

 

クリステンの撮影の最終日、マリアとヴァレンティンの対決シーンを撮る前の夜に、ジュリエットがアサイヤス監督に電話をし、「クリステンが笑っているシーンがあまりない、いつも暗い」と伝えてきました。アサイヤス監督はジュリエットの意見を取り入れることにしましたが、最終日に残っていたのは憂鬱で暗く、悲しいシーンでした。そこで彼は、台詞は全く同じまま、二人が葉っぱを吸って馬鹿笑いするというコメディに変えてみることにしました。実際に撮ってみると、そのシーンの持つ意味が180度変わり、より深い、真の部分が出てきたそうです。この話は映画を観た後に知ったのですが、こんな経緯があったとは思いもよらず、同じセリフのまま場面の意味を真逆に変えてしまう俳優の力の大きさを実感しました。

 

二人の女優の気遣いと切磋琢磨が功を奏したのか、クリステンは見事、セザール賞助演女優賞に輝きました。アメリカ人のセザール賞受賞は「戦場のピアニスト」(2002年)で主演男優賞を受賞したエイドリアン・ブロディに次いで二人目、アメリカ人女優としては初めての快挙でした。彼女が主演した「トワイライト・サーガ」シリーズのヒットによりに彼女の出演料は高騰、2010年のギャラは2,850万ドル(日本円で約23億3,700万円)と推定されています。ハリウッドでは2000万ドル以上の出演料を手にする俳優は「A級リスト俳優」と呼ばれ、ウィル・スミスやトム・クルーズなどの一握りの俳優に限られています。彼女は、30歳未満の若手には稀有なセレブ女優となりましたが、2012年の公開の「スノーホワイト」、「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2 」と、連続してゴールデンラズベリー賞最低主演女優賞を受賞、内心、忸怩たる思いがあったのではないかと思います。。このセザール賞受賞で、彼女も面目躍如といったところでしょう。

クリステンは「トワイライト」の成功とメディアによって有名になりましたが、ユニークな存在感のある稀有な女優だと思っていました。ショーン・ペン監督の「イントゥ・ザ・ワイルド」の時から、端役でしたが存在感を示していました。彼女はとてもカメラ映りが良い、アメリカ映画の女優としては稀有な存在です。ハリウッドの大作に出ている彼女にとって、ヨーロッパのインディペンデント映画はリスクかもしれませんが、私は代わりに、彼女がこれまでの映画で得られなかったものを与えることができると思いました。人為的に作られた役柄ではなく、彼女の即興ができる十分な時間を与えたのです。それは人為的な登場人物とは違うものになり、彼女のキャリアの一時期に私の演出が新たな発見をもたらし、彼女が想像しているより女優としてのキャリアを長く伸ばしていけるのではないかと思います。(オリヴィエ・アサイヤス監督)

 

一方、クロエ・グレース・モレッツ扮するジョアンは、若く破天荒な新時代の女優のプロフィールを描くシーンが多く、社交辞令でマリアに敬意を表する以外は直接対峙する機会も少ないのですが、最後に鋭い言葉をマリアに投げかけます。

当初は成熟した若い女性を探していたのですが、若いわりに彼女にはしたたかさがありました。役より実年齢がかなり低かったのですが、会った時に彼女でいこうと決めました。(オリヴィエ・アサイヤス監督)

 

この映画の原題「Sils Maria」は、スイス東南部にあるシルヴァプラーナ湖とシルス湖に挟まれ、連なる神秘的な山なみに囲まれた、標高約1800m、人口数百人の静謐な地区の名前です。哲学者で詩人、作家でもあったフリードリヒ・ニーチェが晩年を過ごし、「ツァラトゥストラはかく語りき」など数多くの重要な作品を執筆、トーマス・マンヘルマン・ヘッセジャン・コクトーマルセル・プルーストブルーノ・ワルターといった芸術家たちが愛した土地でもあります。劇中劇のタイトル「マローヤの蛇」は、シルス・マリア近くのマローヤ峠のクネクネした谷間を蛇のように流れる雲の意味で、ゆっくりと、しかし確実に流れていく時間を暗示しています。

 

この映画の邦題「アクトレス~女たちの舞台~」はわかりやすいのですが、今は亡き多くの芸術家が愛したシルス・マリアで、自分を通り過ぎていく時間と対峙しながら、役作りをしていく中年スター女優マリアの生き方にその主題はあります。ヴァレンティンやジョアンは、一見、マリアと競合、対立するようにも見えますが、彼女らはマリアが役作りをしながら自分を変えていく、いわば鏡のような人間関係であり、マリアを演ずるジュリエットが役作りをする為の分身であるという捉え方もできます(さらに映画に登場する三人の劇作家は、アサイヤス監督の分身と捉えることができる)。

反逆する若い女優という、かつて演じた役に、マリアは自分を同一視していたのですが、それを疑問視しなければならない、マリアはそういう役です。即ち、時が移ろい、時が奪っていくことだけではなく、ここで問題になっているのは一つのアイデンティティから別のアイデンティティに移行するということです。最初のアイデンティティを捨て、諦めなければならない。マリアがヘレナ役を受け入れることに抵抗したのは、ある記憶の為です。自分が若い女優であった時どのように成熟した女優を見ていたかという、その視線の記憶です。彼女が怖いのは観客や相手役の若い女優の視線ではなく、若い時の自分が今の自分を見る、その視線を恐れているのです。(オリヴィエ・アサイヤス監督)

 

周囲との関係の中で、自分を役に落とし込んでいくマリアには鬼気迫るものがありますが、一方で、解釈の余地を残したエンディングには味わい深いものがあります。女優にとって演ずることは生きることで、生きることが演ずることですが、美しい大女優のジュリエット・ビノシュが、稽古時のジャージ姿や、裸の水浴シーンで年相応のおばさんの姿も見せるこの映画は、女優、女性に限らず、人生の様々な節目を経験する人々に、得も言われぬ共感を与えるのではないかと思います。

 

ヘレナ役に抵抗するマリアと、周囲の人々の会話をいくつか挙げてみます。

クラウス:対立はない。同じ傷を負う女二人が惹かれ合う。シグリッドとヘレナはひとり、同一人物なんだ。それを描いている。シグリッドを演じたなら、ヘレナになれる。
マリア:なぜ、そう思うの?
クラウス:ヴィルヘルムは数年来、続編に取り組んでいた。
マリア:そう、40歳になったシグリッドの物語よ。
クラウス:いや、20年後、シグリッドがヘレナになる物語だ。

  

マリア:この場面は大嫌い。思い出してしまう。スーザンがこの敗北した女になりきるの見るたびに、嫌悪を感じたわ。彼女は歪んだ喜びを感じてたのよ。
ヴァレンティン:なぜ敗北?
マリア:彼女は敗北したのよ。年齢や不安感に。小娘の言いなりになったのよ。
ヴァレンティン:いいえ、それだけじゃない。

 

ジョアン:ヘレナの役をやることは勇気あることよ。時の流れに向き合うことですもの。
マリア:自分に言い聞かせるのよ、「これはただの仕事、終われば次の仕事に移る」って。

 

クラウス:ヴィルムヘルムによる続編の断片をもらった。信頼の証だ。流れが変な箇所もあるが、新たな解釈となる場面もある。
マリア:彼が「マローヤの蛇」を書いたのは35歳頃?
クラウス:38歳だ。最初の映画の後。
マリア:、まだ若く、勢いがある。二十年後、より分析的に全体の構成を考え、豊かに実らせたかったのかも。でも、作品の若さを大事にすべきでは?
クラウス:新場面なしで?
マリア:そう。
クラウス:彼は成熟とは無縁だった。むしろ晩年の作品は、より大胆で不思議な力に満ちていた。見方を変えるべきだ。彼のように、凍てついた過去ではなく、未来の光に身を投じて。

 

フランス・スイス・ドイツ合作ながらの英語劇で、ハリウッドのスター女優も起用、教養主義ヨーロッパ映画と対置して商業主義のハリウッド映画を風刺する場面もありますが、現実世界、映画世界、劇中劇の虚々実々が交錯する様はスリリングで娯楽的でもあり、ヨーロッパ発の映画の底力に脱帽します。

三人ともこの映画がとてもユーモアのある作品だと理解していました。また、全員ハリウッドでの映画の経験があるので、ハリウッドが昔よりさらに産業的な側面を強めて、拘束も多く、自由に創造する余裕がないことを知っています。皆が苦しんだとは言いませんが、その重圧は感じていると思うので、そうしたことに対して皮肉な距離を取ることを楽しんだのではないでしょうか。中でもクリステンは、映画を巡るメディア産業を斜め視線で捉えていることを楽しんだようです。(オリヴィエ・アサイヤス監督)

 

<オチバレ>

「マローヤの蛇」の講演を前に、煮え切らないマリアを嫌悪するヴァレンティンは、マリアの元を去ります。マリアは、「マローヤの蛇」のヘレナがシグリッドを失った悲しみを実体験します。公演当日に、マリアはジョアンに提案をしますが、あっさりとはねつけられます。

マリア:ジョアン!
ジョアン:なあに?
マリア:相談があるの。
ジョアン:第三幕、最初の場面だけど、あなたが「去る」と言い、私が「残って」と言う。あなたは電話でピザを注文するわね。そして私を見ないで出て行く。私が存在しないみたいに。少し間を置けば、残されたヘレナの絶望に余韻が感じられる。今の演じ方だと、観客はすぐヘレナを忘れてしまう。
ジョアン:だから・・・、だから何?
マリア:私が演じた時は間を置いた。ある種の迫力が出たし、効果があったわ。
ジョアン:ヘレナなんか誰も気にしない。だって、惨めな女はもうお終いよ。役柄のことよ、あなたじゃない。シグリッドが出て行く時、ヘレナは燃えカス、消える潮時なのよ。誰もが次を望んでるの。
マリア:少し間を置いて欲しいだけ。
ジョアン:そんなの無駄よ、マリア。
マリア:そうね。きっと私は、記憶の中をさまよっているのね。忘れたつもりでいたのに、全てが蘇った。断ち切らないと。
ジョアン:そうすべきね。

開演を待つ間、マリアは新作への出演を持ちかけてきた新進の劇作家の話を聞きます。 

マリア:脚本を読んで、もっと若い人を想像したのよ。昔の私をイメージしたのでしょうけど、私は変わったの。
ニコルソン:彼女に年齢はない。また、あらゆる年齢でもあるんです。
マリア:率直に言っても?共演者のせいでもあるけど、脚本を読むとジョアンに向いてるわ。
ニコルソン:ですが、個人的には彼女は考えていない。
マリア:彼女は頭がいい。才能もあるし、現代的よ。主人公と同じ。
ニコルソン:主人公は現代的とは言えない。時を超越しているんです。
マリア:時を超越・・・。よくわからないわ、抽象的すぎて。
ニコルソン:僕は今の時代が嫌いです。
マリア:あなたの時代よ。
ニコルソン:選んだわけじゃない。ジョアンやネットのスキャンダルが僕の時代なら、拒否する権利がある。彼女に反感はない、あなたなら分かるかと。

公演が成功したのか、マリアは敗北したのか、マリアは新進劇作家のオッファーを受けたのか、映画は描いていません。彼女の最後のセリフは、 

係員:5分で開幕です。
マリア:入りは?
係員:満席です。

この後、マリアはステージに上がり、タバコに火をつけ、上を見上げて役作りを完成、エンドクレジットが映し出されます。

 

ヘレナ役に抵抗するマリアを支えて来たのは、女優としてのプロ意識でした。彼女はヴァレンティンと激しくぶつかり合いながら役のイメージを作ってきました。開演の直前にジョアンに提案したのも、役作りの為でしょう。マリアは対決とか敗北といったことではなく、周囲との関係の中で自分を役に追い込んでいるのです。新進劇作家にもジョアンの起用を勧めていますが、もし対決のつもりならばそのようなことはしません。あえて言うならば、彼女は役作りとともに自らも変わるべくアイデンティティと戦っているのです。この映画の契機となったジュリエットの問い「時間と対峙する女性の本質」に対するアサイヤス監督の答えは、 

「時間に激しく抵抗しながら、周囲との関係の中で、自らのアイデンティティを変えていく。」 

ではないかと思います。ちなみにアサイヤス監督は、世代交代に関して「映画は常に新しい世代によって再発見されるもの。世代交代ということではなく、(若手とベテランとの交流によって)きっと新たに生まれてくるものがあるはず。」と語っています。映画では必ずしもそこまで描かれていませんが、これをマリアに当てはめると、 「ジョアンや新劇作家と交流することにより、彼らに舞台や映画の再発見を期待する」ということになります。

<オチバレ終わり>

 

ジュリエット・ビノシュ(マリア・エンダース)

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クリステン・スチュワート(ヴァレンティン)

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クロエ・グレース・モレッツジョアン・エリス)

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シャネルが全面的に協力

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シャネルが授賞式のシーンでマリアが纏うドレスやジュエリーをはじめ、劇中で使用されるコスチュームを提供し、メイクアップも担当しています。さらに35mmフィルムで撮影する為の資金も提供しています。オリヴィエ・アサイヤス監督が、経年変化しないデジタルではなくフィルムで撮影したのは、おそらくこの作品自体を時の流れに委ねるという意図があった為と思われます。

 

マリアを演じたジュリエット(左)は明るい性格のよう、右はジョアンを演じたクロエ

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サウンド・トラック 

本作のサウンドトラックには、ゆったりとした時の流れと同化するような、美しく心地良いバロック音楽が使われています。唯一の例外は、煮え切らないマリアに辟易したヴァレンティンが、マローヤ峠の雲の中を車で飛ばす時にかかるイギリスのロックバンド、プライマル・スクリームの「コワルスキー」です。使用されている曲は以下の通りです。

この映画にはなぜか特殊なバロック音楽のトーンが必要だと思ったのです。バロック音楽の中にあるメランコリーと喜びが混ざりあっているところがこの映画には必要でした。それは理屈で説明することはできないけれど、直感的にこの映画に関してはバロック音楽に導かれていきました。実際に出来上がってみて、上手くいったと思います。

「コワルスキー」を使ったのは、この映画の窓が開いて、ヴァレンティンの別人生が覗かれるようなもの、カメラのフレームの外のシーンが突然見え、単に女優マリア・エンダースのアシスタントだけではない、別の人生を持っており、映画では語られないストーリーを持っていることが垣間見られるシーンになっています。いわば、この映画の中で一瞬当惑してめまいがする瞬間にもなっています。最初の頃から、この曲が必要だと思っていたのです。(オリヴィエ・アサイヤス監督)

動画クリップ(YouTube

マローヤの蛇(マローヤを流れる雲)〜「アクトレス~女たちの舞台~」

アーノルド・ファンク「マローヤの雲の現象」

アーノルド・ファンクの映画は、とても純粋なもので、雲や山の頂だけが見えます。そしてそうした部分は時間が支配出来ない部分です。雲や山は変わらず、時間の支配を逃れている。私が知っている通りの風景が、ほとんど一世紀前にアーノルド・ファンクによって撮影されていたということに、非常に感動を覚えました。何か時間の外にあるものの痕跡を芸術が残しているということ。その映画はモノクロですし、技術的条件も当時のものですから、保存状態も非常に悪い状態でしか今には伝わっていません。そうしたことを考えると時間の経過が映画のメディアそのものに書き込まれている、見ている対象ではない、むしろ映画の物質そのものの中に、現実のマチエールの中に時間の経過が書き込まれていると思いました。ですからアーノルド・ファンクのあの映像は実に興味深いものであり、“謎”として私を魅了したのです。この映画を生み出したのはそこから来たと言ってもいいでしょう。この物語を語ろうと思ったのは、そうした謎を解決するには至らないにしろ、その謎に対して対決したいという欲求、しなければならないという必然からこの物語を語ったのだと思います。」(オリヴィエ・アサイヤス監督)

撮影地(グーグルマップ)

ヴァレンティンが雲の中、車を飛ばしたマローヤ峠

 

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関連作品 

オリヴィエ・アサイヤス監督xジュリエット・ビノシュのコラボ作品Amazon

  「夏時間の庭」(2008年)

  「ノン・フィクション」(2018年)監督・脚本

 

オリヴィエ・アサイヤス監督・脚本作品のDVD(Amazon

    「冷たい水」(1994年)監督、輸入盤、日本語なし

  「イルマ・ヴェップ」(1996年)監督・脚本、VHS

      「8月の終わり、9月の初め」 (1998年)監督・脚本

        ・・・VHS、輸入盤、日本語なし

「カルロス」(2010年)監督・脚本

  「5月の後」(2012年)監督・脚本、輸入盤、日本語なし

  「パーソナル・ショッパー 」(2016年)監督・脚本

 

ジュリエット・ビノシュ出演作品のDVD(Amazon

  「トリコロール/青の愛」(1993年)

  「イングリッシュ・ペイシェント」(1996年)

  「サン・ピエールの命」(2000年)

  「隠された記憶」(2005年)

  「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」(2007年)

  「トスカーナの贋作」(2010年)

   「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」(2013年)

       ・・・北米版、リージョン1、日本語なし

 

クリステン・スチュワート出演作品のDVD(Amazon

  「イントゥ・ザ・ワイルド」(2007年)

  「アドベンチャーランドへようこそ」(2009年)

アリスのままで」(2014年)

  「ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択」(2016年)

  「パーソナル・ショッパー」(2016年)

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