洋画ファンならば、戸田奈津子さんの名前を知らない人はいないでしょう。字幕翻訳者は映画スターや監督と違って地味な存在です。顔も声も出ず、長いエンドロールの最後に名前が出るだけです。戸田奈津子さんは、多い時で年間50本もの字幕翻訳を手がけていました。何本かの映画を見るうちに決まって「字幕:戸田奈津子」と出てくると、「えっ、またこの人?」と、戸田奈津子さんを記憶した人も少なくないでしょう。
戸田奈津子著「Keep on Dreaming」(楽天市場)
私もそのような一人でしたが、もうひとつ字幕翻訳者が地味な理由として、映画は役者が演ずるもので字幕は主張しない方が良いからだと考えています。戸田奈津子さんご自身も、
「理想的な字幕は、観客に字を読んだという意識が何も残らない字幕なんです。画面の人が日本語をしゃべっていたと錯覚を起こすくらい「透明な字幕」が一番いいんです。」
と語っています。私も字幕の訳の精度はあまり気にしません。字数に制限がありますし、映画の流れの方が重要です(その代わり、重要なセリフは自分で原文を調べることもあります)。
但し「透明な字幕」は、簡単な事ではないでしょう。字幕翻訳者は、まず映画の流れをよく理解しなければなりません。製作者や役者の意図を汲む必要もありますし、場合によっては時代背景や文化的背景を理解する必要もあります。それを適切な日本語に置き換えるには、日本の文化をよく理解している必要もあります。字数制限のある短い言葉で表現してするには理屈ではなくて感覚が重要でしょう。
戸田奈津子さんが本格的に字幕を手がけるようになったのは40歳を過ぎてからですが、よくこれを引き合いに出して「若いうちから英語を勉強する必要はない」と言う人がいます。「それはどうかな?」と私は思います。産經新聞に連載された戸田奈津子さんのインタビューを参考に、彼女の人生を眺めてみました。
戸田奈津子さんは、母親譲りの「気が強く妥協しない」性格で、子供の頃は世界の文学作品を読みあさっていました。「協調性がない」と小学校の先生に評されたこともあるそうです。彼女のお母さんが映画好きで、戸田奈津子さんも10歳の頃からよく映画館で洋画を見ていました。
「本を読むことは自分の知らない世界をイマジネーションで遊ぶこと、映画はその延長、知らない世界を想像する面白さが好き」
と、ご本人は語っています。 中学では英文和訳の面白さに目覚め、英語の成績も上がりました。高校時代に何度も「第三の男」を見るうちに、字幕は直訳ではなく、セリフの要素をうまく日本語に置き換える作業だと知り、面白そうだと思うようになりました。
大学は得意の英語を生かすべく津田塾大の英文科を受験しました。難関ですが、「英語はそれまでの積み重ねがあるからなんとかなると思っていました」とご本人は語っています。映画さえ見ていれば幸せで、大学時代は授業をサボって映画を見に行く事もあったようです。
戸田奈津子さんは、この頃から既に字幕翻訳の仕事をしたいと思っており、就職活動の際に当時の字幕翻訳第一人者である清水俊二さんに手紙を出し、お会いしています。この時は就職に結びつきませんでしたが、決して諦めないと思ったそうです。
大学卒業後は、生命保険会社に就職しましたが、仕事が性に合わずに一年半で退職。しばらく無職でしたが、翻訳のアルバイトがあったので生活には困らなかったそうです。そのうち、清水俊二さんに頼まれて映画のヒアリングをするようになり、洋画界とのつながりや配給会社のツテができました。
その配給会社からの依頼で、「地獄の黙示録」撮影中のフランシス・コッポラ監督のガイド兼通訳を務めた際に、監督から日本語字幕への翻訳者に抜擢されました。その後、字幕翻訳の仕事が舞い込むようになり、増えていきました。
このように戸田奈津子さんの人生を眺めると、40歳から翻訳の仕事を始めたのではなく、実は幼少の頃から字幕翻訳への人生が始まっていた事がわかります。コッポラ監督による抜擢後に仕事が増えたのも、ニーズに応える実力があったからでしょう。さらに、字幕翻訳への適性ついてご本人は次のように語っています。
「字幕翻訳の仕事は一人で全部をやるので私に向いていたんです。私の直感は非常に正しかった。すごい時間はかかったけど」
「知らない世界を想像する面白さが好き。翻訳でセリフをつけるためには出演者全員になりきらなくてはいけません」
戸田奈津子さんの字幕人生が教えてくれることは、どうも「40歳まで英語は勉強しなくても良い」ではなく、「自分の直感を信ずる事、諦めずに積み重ねる事」かもしれませんね。ちなみに、CGの映画が出た頃から、彼女はもう休みたいなと思われ、仕事のペースを落とされているようです。
「仕事は、いい作品がくればやりましょうという感じかな。もうガツガツしても仕方ないでしょ。なんたって私、もうすぐ80歳ですよ。もういいじゃない、ゆっくりさせてもらっても。」
とのことですが、「字幕:戸田奈津子」のエンドロールをまだまだ見たいと思うのは、彼女の透明字幕に親しんだ映画ファンの郷愁でしょうか?
戸田奈津子さんのその他の著書
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