「ティエリー・トグルドーの憂鬱」(原題: La Loi du marché、英題: The Measure of a Man)は、2015年公開のフランスのドラマ映画です。ステファヌ・ブリゼ監督・共同脚本、ヴァンサン・ランドンら出演で、勤務先をリストラされ、やっとの思いで再就職にこぎつけた中年男が、ある事件をきっかけに自らの気持ちと会社の決まりの間で葛藤する姿をドキュメンタリータッチで映し出し、情け容赦のない現代社会をリアルに描いています。第68回カンヌ国際映画祭でパルムドールを争い、男優賞(ヴァンサン・ランドン)とエキュメニカル審査員賞(ステファヌ・ブリゼ)を受賞、第41回セザール賞では主演男優賞(ヴァンサン・ランドン)を受賞するとともに、フランス本国で多くの人々の共感を呼んだ作品です。
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目次
スタッフ・キャスト
監督:ステファヌ・ブリゼ
脚本:ステファヌ・ブリゼ/オリヴィエ・ゴルス
出演:ヴァンサン・ランドン(ティエリー・トグルドー)
カリーヌ・ドゥ・ミルベック(ティエリーの妻)
マチュー・シャレール(ティエリーの息子)
ほか
あらすじ
- 「研修を受けたのに、仕事がない」と、51歳のティエリー・トグルドーは職業紹介所の職員に訴えます。失業して1年半経ちますが、クレーン操縦士の研修を受け資格を取ったにも関わらずに、実務経験がない為に雇ってもらえません。職に就けないような研修をなぜ勧めるのか、失業保険が減額されローンの支払いで暮らせなくなると声を荒げますが、職員は「履歴書作成のお手伝いと募集企業リストの作成しかできない」と答えるばかりです。
- ティエリーには障害を持つ高校生の息子と、何一つ不満を言わない妻がおり、先が見えない彼にとって家族と囲む食卓がせめてもの憩いです。工作機械のオペレーターとして勤めていた会社に対し、不当解雇を訴えようと元の同僚たちが集まり話し合いを重ねますが、ティエリーには裁判と職探しを両立する気力はもうありません。「失業で心が裂けてしまった」と言って、仲間から去ります。
- ティエリーは就職活動でスカイプを使って面接を受けますが、人事担当からは採用の確率は低いと言い渡された上、履歴書の自己PRが足りないと指摘されます。模擬面接を行い評価し合うグループコーチングでは、「笑顔がなく冷たい」、「おどおどして心を閉ざしているよう」、「答え方がおざなり」などと、人生経験を重ねてきた彼にとっては、人格を否定されるように厳しい意見を若いメンバーからもらいます。
- 銀行の借り入れ相談では、住んでいるアパルトマンの売却を勧められます。あと5年で返済が終わる家が唯一の財産と抵抗すると、今より状況が悪くなる、つまり彼が死ぬことがあっても、遺された家族が将来に不安を抱かずにすむ生命保険加入こそ、有益な支出と女性行員に勧められます。所有するトレーラー・ハウスを売りに出すと、物件を見にきた夫婦が合意済みの売却価格にケチをつけ、値引きを要求します。安売りはしたくないと、ティエリーは売るのをやめてしまいます。
- やっとのことでスーパーマーケットの警備員の仕事を得、売り場を巡回したり、監視カメラで万引きをチェックする仕事にも慣れ、家では妻とダンスを踊ったりと、家庭が笑い声に包まれるようになります。しかし、監視の仕事は精神的負担が大きく、携帯の充電器を盗む若者は開き直り、肉を盗んだ一人暮らしの老人は無一文で、お金を借りるあてもなく、警察に通報するしかありません。
- 障害を持つ息子は成績が下がり始め、このままでは希望する生物工学の専門校に行けないと進路相談で告げられます。そんなある日、スーパーの取調室に勤続20年以上のベテランのレジ係が連れてこられます。割引クーポン券を不正に集めたことを咎められた彼女は謝罪しますが、店長はその場で解雇します。ほどなく彼女は店内で自殺、本社の人事部長は「彼女には家庭の悩みがあり、退職後の自殺は皆さんに責任はない」と、店員たちに話します。
- 葬儀が終わってしばらくすると、自分のポイントカードをスキャンさせていたレジ係の女性が部屋に連れてこられます。ティエリーと二人きりになった時、「あなたでも上司に報告するの?」と彼女は言います・・・。
レビュー・解説
家庭を大切にする古き良きフランス人、ティエリー・トグルドーの体験を通して、中高年の失業や、冷酷な企業システムが日常生活にもたらす非人間的な側面を、抑制の効いたドキュメンタリータッチでリアルに描き、観る者の感性に人間としての怒りを静かに問いかける優れた作品です。
監督・共同脚本のステファヌ・ブリゼは、
- 「愛されるために、ここにいる」(2005年)
- 「シャンボンの背中」(2009年)
- 「母の身終い」(2012年)
などの脚本・監督で知られる、フランスの映画監督、脚本家、プロデューサー、俳優で、いずれの作品も50歳前後の冴えない中年男を主人公に、ちょっとした出来事とそれに伴う心情の変化をリアルに描くことを得意とします。また、「シャンボンの背中」と「母の身終い」では、本作同様、ヴァンサン・ランドンが主演を務めています。
本作は、大上段に構えて社会を揺るがすような事件を描くものでありません。あくまでも51歳で失業した男のちょっとした出来事を、長めのテイクでじっくりとリアルに見せていきます。
冷たく非人間的なシステムに足を踏み入れてしまった男の人間性と、その反応を描きたかった。不幸にも失業し、これまでとは違った経験を余儀なくされた、実直な男にカメラを向けたんだ。正規雇用される為なら何でもやるか、というのが出発点だった。
メディアや日常生活で見聞きするものの触発されたんだ。舞台、特にスーパーの現場をよく知る必要があった。何ヶ月も調べ、警備員の見習いもやった。ヴァンサン・ランドンもそうだ。職業紹介所のワークショップにも15ヶ月間、参加し、いろいろと学んだ。この映画は幻想ではない、現実だ。脚本家の気まぐれで書いたものではない。(ステファヌ・ブリゼ監督)
本作は、主人公をいきなりダークサイドに落としたり、ドラマティックな善悪の二元論に落としこんだりはしていませんが、
- 高齢者にはなかなか職が見つからない
- 訓練を受けて資格を取得しても、実務経験の無い者は職を得ることができない
- 職業紹介所は履歴書作成支援と募集企業リスト提供という形式的支援しかできない
- 不器用な高齢者は面接で辛辣な評価を受けても、人生経験を評価される事はない
と、主人公はじわじわと追い詰められていきます。ようやく探し当てた警備員の仕事では、
- 不正を咎め、同僚を自殺さえ招きかねない解雇に追い込むか
- 不正を見逃し、自分がクビになって障害児を抱えて路頭にさまようか
という窮地に追い込まれます。これらはまさに高齢の失業者の現実で、ヴァンサン・ランドンの抑えた演技が、本作を非常に見応えのあるものしています。
企業の目的は利益追求です。成長性のある若い人を安い賃金で使った方が効率が良いので、高齢者の仕事は必然的になくなります。しかし、人間社会は利益を追求するために存在するわけではありません。望む高齢者には雇用が得られるべきです。彼が警備員の仕事で直面する問題を、「決まりを破った者は処罰を受けて当然であり、そうした組織の冷酷さを受け入れなければ、この世の中では生き残れない」と感じるか、「不正は不正としても、人間味のない社会は果たして人々が求めているものだろうか」と感じるかは、人によるでしょうし、もし自分がティエリーの立場ならどうするかというのはとても難しい問題だと思います。しかしながら、私はこうした「組織の冷酷さ」を当然のこととして受け入れることにも、抵抗があります。企業が利益を追求するのはやむを得ないにせよ、高齢者を雇用しないとか、非人間的で冷酷な姿勢に対しては、社会はいつでも怒りを持って「ノー」といえるようでなければならないと思います。
原題の「La Loi du marché」は「店の決まり」といった意味で、英題の「The Measure of a Man」は「人間の価値」といった意味です。欧州もアメリカも資本主義社会ですが、アメリカは市場原理に基づく効率最優先の競争的な自由主義社会で、かつての強烈なレッドパージの結果か、社会主義的発想はほとんどありません。一方、欧州の資本主義は成長や効率が必ずしも最優先ではなく、ゆとりと思いやりのある社会を作り、貧富の差を縮め、治安の良い状態を維持しようとする社会民主主義的な性格を持っています。通常、映画の英題は直訳になることが多いのですが、敢えて異なる題名をつけた背景には、こうした欧州とアメリカの人々の社会観の違いが出ているようで興味深いです。つまり、フランス人的感覚では、元従業員を自殺に追い込んだ冷酷な「店の決まり」に否定的な引っ掛かりを感じることができます。しかし、アメリカ的な社会観から言えば利益最優先の「店の決まり」は当然で、自殺は自業自得、疑問の余地はありません。むしろ、なかなか職が得られず、簡単にクビを切られてしまう、企業に翻弄される側の「人間の価値」をストレートに表現した方が、英題としてわかりやすいという配慮かと思われます。
日本もかつては「実質的に社会主義」と言われたこともありましたが、金融ビッグバンを経てグローバル経済の荒波に晒される中、アメリカ的な市場原理主義に染まりつつあるように感じられます。年功序列や終身雇用など日本に特徴的な共存的制度が「非効率的」と一刀両断され、議論の余地もないままに廃れた様は、アメリカ的やり方に抵抗する欧州とは対称的です。日本人が本当にアメリカ的な競争社会に納得しているかどうかは疑問ですが、これは日本人の、一種、運命論的な受け止め方なのかもしれません。そう思えば、「ティエリー・トグルドーの憂鬱」という内向きな邦題も納得です。
余談になりますが、企業は賃金の安い移民の労働力を使うことで、より利益をあげることができます。グローバル経済が発展してきた理由のひとつはそこにあります。しかし、これは自国内に多くの失業者を生み出すことになり、反動としてイギリスのEU離脱やトランプ大統領の反移民政策をもたらしました。私個人としては移民そのものに反対するわけでありませんが、市場原理や効率や進化といったものを最優先する社会には大きな疑問を感じています。移民に限らず、AIが人間の仕事を奪うなどとまかとしやかに言われていますが、企業が利益を追求すれば、かならず不利益を被る人がでてきます。社会はそうした人々に利益を還元し、バランスをとるようなシステムをうまく機能させて行く必要があると思っています。
ヴァンサン・ランドン(ティエリー・トグルドー)
撮影地(グーグルマップ)
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