「ドラゴン/ブルース・リー物語」(原題:Dragon: The Bruce Lee Story)は、1993年公開のアメリカのアクション&ドラマ映画です。ブルース・リーの夫人、リンダ夫人のリンダ・リーの著書「ブルース・リー・ストーリー」、ブルース・リー出演作品「燃えよドラゴン」の監督ロバート・クローズの著書「Bruce Lee: The Man Only I Knew」を原作に、ロブ・コーエン監督、ジェイソン・スコット・リー、ローレン・ホリー、ロバート・ワグナーら出演で、32歳で急死した伝説的アクション・スター、ブルース・リーの生涯を描いています。
目次
スタッフ・キャスト
監督:ロブ・コーエン
脚本:エドワード・クマラ/ジョン・ラッフォ/ロブ・コーエン
原作:リンダ・リー著「ブルース・リー・ストーリー」
ロバート・クローズ著「Bruce Lee: The Man Only I Knew」
出演:ジェイソン・スコット・リー(ブルース・リー )
リンダ・リー(ローレン・ホリー )
ロバート・ワグナー(ビル・クリーガー)
マイケル・ラーンド(ヴィヴィアン・エメリー)
ナンシー・クワン(グッシー・ヤン)
ケイ・トン・リム(フィリップ・タン)
エド・パーカー・ジュニア(エド・パーカー)
ワン・リョン(イップ・マン)
リック・ヤン(ブルースの父)
ジョン・チャン(ジョニー・サン)
オン・スー・ハン(ルーク・サン)
エリック・ブラスコッター(ジョー・ヘンダーソン)
スヴェン=オーレ・トールセン(悪魔)
クライド・クサツ(歴史の教師)
ヴァン・ウィリアムズ(グリーン・ホーネットの監督)
ロブ・コーエン(燃えよドラゴンの監督)
シャノン・リー(パーティーの歌手)
ほか
あらすじ
- 1961年、香港。ダンスホールでイギリス水兵をたたきのめしたブルース・リー(ジェイソン・スコット・リー)はヒーロー気分で家に帰ります。水兵が地元の警察副長官の甥で、このままリーを香港に住まわせるのは危険だと考えた父(リック・ヤング)は、リーにアメリカでの出生証明書を見せ、アメリカに行くように説得、リーは船で一路アメリカへと向かいます。
- 1962年、サンフランシスコ。中国人の女性オーナー、グッシー(ナンシー・クワン)のアドバイスで大学に通い始めたリーは、知り合った学生たちにカンフーを教えることになります。その後、リンダ(ローレン・ホリー)という女性も加わり、リーとリンダはいつしか愛し合うようになります。本格的な道場を設立したリーは充実した生活を送りますが、時折、子供の頃に見た、鎧を着た悪魔に襲われる幻覚を見ます。
- リーは、リンダの母ヴィヴィアン(マイケル・ラーンド)に会い、結婚を認めてもらおうとしますが、白人でないからと断られてしまいます。しかし、2人は周囲の反対を押し切り結婚します。そんな時、リーはチャイナタウンの権威者たちに呼ばれ、カンフーを他の人種に教えることは許さないと言われ、ある男と闘い、彼を倒せば好きにしていいという条件で、決闘の場へと向かいます。リーは勝利しますが重傷を負い、リンダに励まされリハビリを続け、やがて息子ブランドンも生まれます。
- 回復したリーは国際空手大会で、かつて重症を負わされた男、ジョニー・サン(ジョン・チュウン)と闘い、彼を倒します。それを見ていたテレビ・プロデューサーのビル・クリーガー(ロバート・ワグナー)は、新番組「グリーン・ホーネット」のカンフー使い役にリーを出演させ、リーは一躍注目を浴びます。リンダが二人目の子を身ごもりリーは喜びますが、番組は数回で打ち切りになり、そして香港の父の死が知らされます。
- 香港からの帰途、リーはプロデューサーのタン(ケイ・トン・リム)に香港映画の出演を依頼され、1970年、初主演作「ドラゴン危機一発」が公開されて大ヒットします。香港での生活も順調に進み始めたある日、ビルがリーのもとを訪れ、ハリウッドでの映画出演の話を持ってきます。初のメジャー作品「燃えよドラゴン」撮影中、リーは再び悪魔の幻覚に襲われます・・・。
レビュー・解説
ブルース・リーは渡米してアメリカン・ドリームの実現を目指しましたが、リンダ夫人と結婚、子供にも恵まれたものの、念願のテレビドラマ「燃えよカンフー」の主演はかないませんでした。帰国して香港映画「ドラゴン危機一発」(1971年)に出演したブルース・リーは、香港映画歴代の記録を塗り替える大ヒットを飛ばしました。その後も「ドラゴン」シリーズで活躍しましたが、それも束の間の事でした。彼は1973年7月20日に、「死亡遊戯」で共演予定の女優宅で頭痛を訴え、鎮痛剤を飲んで横になったまま昏睡状態に陥いり、病院へ搬送されましたが死亡が確認されました。*3 32歳の若さでした。
葬儀は香港とシアトルで両方で行われました。シアトルの葬儀にはブルース・リーの弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列し、遺体はシアトルのレイクビュー墓地に埋葬されました。彼が待ち望んでいたアメリカ・香港合作の「燃えよドラゴン」は、彼の死後、アメリカを皮切りに世界各地で公開され、大ヒットしました。
ブルース・リーには数々の伝説があります。例えば、
- 動きが早過ぎる為、早めの速度で映画撮影し、通常の速度で再生していた。
- 相手の手のひらの上のコインを瞬間的に他のものと入れ替えることが出来た。
- 香港で育った彼はストリートファイターで、香港警察とのトラブルが絶えなかった。
- 指で突くだけで、ジュースの缶に穴を空けることができた。
- 片手の2本の指で「指」立て伏せが出来た。
- トレーニングで腰の仙骨神経を痛め医者に武術は不可とされたが、その後5本の映画に出演した。
- 仰向けの状態からお尻を軸に体を折り曲げる「Vシット」の姿勢を、30分以上キープ出来た。
- サンドバッグを蹴って天井にぶつけたり、破裂させることがあった。
- キック2000回、パンチ5000回、ウェストツイスト360回、シットアップツイスト100回、レッグレイズ100回、ラーニングツイスト200回、カエルキック200回ほかのトレーニングをこなしていた。
- わずか1インチのストロークのパンチで、相手を4、5メートルも吹っ飛ばすことが出来た。
多くは真実の様ですが、ブルース・リーならすべてさもありなんです。ここに、一つの映像があります。
ブルース・リーの没後35周年を記念して、香港のノキアが携帯電話のプロモーション用に作成したビデオです。実はフェイクですが、実際のブルース・リーならこのくらい出来たはずと思わせるところが、伝説になったブルース・リーの凄さではないかと思います。
「燃えよドラゴン」で、一躍、アクションスターとして世界にその名を轟かせたブルース・リー、しかし彼はハリウッド・スターとしてアメリカン・ドリームを満喫することなく、夭折してしまいました。ブルース・リーは夢を飛び越えて伝説になってしまったんですね。
関連作品
ブリース・リー出演作品のDVD(Amazon)
「ドラゴン危機一発」のDVD(1971年)
「燃えよドラゴン」のDVD(1973年)
「死亡遊戯」のDVD(1978年)
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*3:映画では死因を扱っていないが、公式な死因は脳浮腫とされている。司法解剖の結果、脳が極度に肥大化していたことが判明した。検死報告によると、彼の脳は約13%膨らんでおり、頭蓋内圧亢進により脳幹部が圧迫されて死に至ったと考えられている。 リーは、「燃えよドラゴン」の撮影約一ヵ月後の1973年5月10日、スタジオで音声吹き込み中に昏倒し意識不明の重体に陥いった。病院に運ばれたが、2時間後に回復し、13日には退院した。その後、渡米し精密検査を受けるが、結果は「異常なし」であったとされている。
脳浮腫が起きた原因は、背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、その晩に服用した頭痛薬の副作用と言われている。 死因に関して紛糾したため、香港政庁は1973年9月に死因究明裁判を開いた。イギリス統治下にあった香港で出された正式判決は「死因不明」であり、脳浮腫が起きた原因は特定されなかった。
リーの死因が鎮痛剤による過剰反応であれば、アナフィラキシーショックを起こしたことなる。この場合、首のかぶれという外傷を呈するが、報告書には「目立った外傷はなし」と記述されている。アナフィラキシーショックの症状が認識されたのは1995年以降のため、死亡当時は可能性が検討されていなかった。イリノイ州シカゴのクック郡医療検査官事務所のジェームズ・フィルキンスは、死因を「癲癇による突然死」であるとしている。